小説を楽しんでプラス

主に私が作成した超短編小説(ショートショート)を記事にします。ほかにお気に入りの小説を紹介します。

小説を読もう「空飛ぶタイヤ 池井戸潤」の言葉表現

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空飛ぶタイヤ 上下合本版 池井戸潤

小説が好きで小説家の表現の仕方をまとめただけの資料です。

ぼくが駆けつけたとき、君は病室の白いシーツに包まれて横たわっていました。
「ママ寝てるの?」
タカシにきかれて、ぼくはそのちっちゃな手をシーツの中の君の手に重ねました。
「あったかいだろう」
タカシは何かを察したのか、じっとぼくを見上げ、それから君の横顔を見つめます。
失われていく君の体温が冷めないうちに、ぼくもその手のひらに手を添えました。

生きているような君の横顔をはっきりとこの目に焼き付けたいのに、止めどなく溢れる涙でぼくの視界は滲んでしまいました。

午後十時を過ぎた上り電車は空いていて、反対側のガラス窓には、小難しい顔をして腕組みしているずんぐりした赤松の姿が映っている。若いつもりがいつのまにか四十を過ぎ、髪も薄くなって疲れきり、脂の浮いた額が光っていた。

遺影の主婦は、明るく笑って、遠くをみていた。遠くにある夢を見つめている表情に赤松には見えた。

暗い多摩川を渡り始めた電車が、足元から規則的にレールを打つ音を運んでくる。

「そうですか……」
今度は宮代がため息をつく番だ。「で、先方さんとお話は?」
「だめだ。謝罪はしてみたが、話が進展するとかのレベルじゃなかった。通夜だしな」

空腹のはずなのに何も食う気にならず、疲れ切っているはずなのに神経は研ぎ澄まされて眠気は欠片もない。

赤松の足はゼンマイが切れたかのように止まった。
「亡くなった?亡くなったのか-?」

まるで地球上の酸素が無くなってしまったかのように、赤松は喘いだ。視界から色彩が失われていき、息苦しさが募る。呻(うめ)き、拳を額に強くうち付け、「ちっ」と舌打ちが洩れた。

「タイヤが、飛んだ……?」
赤松は虚ろな眼差しを宮代に向ける。
「そこですよ、社長」
じっとりとした視線が返ってきた。宮代は、赤松の背後を一瞥(いちべつ)する。そっちには赤松運送の駐車場と、整備工場が併設されていた。

そのときの状況を消え入るような声で話した安友は灰のように蒼(あお)ざめ、唇に血の気はなかった。

赤松はがっくりとうなだれ、両手に顔を埋めた。

門田の痩せた体が吹っ飛び、事務所の椅子の間で派手な音を立てる。
「てめえなんざ、とっとと出ていきやがれ!クビだ!」

倒れ込んだ椅子の間から、唇の血を手の甲で拭いながら立ち上がってきた門田に赤松は言い放った。

一触即発の睨み合いも、門田の視線がふいに逸(そ)れて終わり、「けっ。辞めてやらあ」という言葉とともに、赤松運送の問題児は事務所から飛び出していく。

「すみませんでした、社長。この通りです」
瞼(まぶた)をぎゅっと閉じ、痛いぐらい帽子を握りしめた谷山に、「タニさんが悪いわけじゃねえ」と赤松は諦めたようにいった。

ごくろうさまです、という宮代の掠(かす)れた言葉にうなずいた赤松は、靴に鉛でも入ったかのように重くなった足を引きずって、雲のない夜空の下へ出た。

11時過ぎに出社した赤松を待っていたらしい宮代は、赤松の席まで来ると社員にはばかるように声を潜めた。
「門田のことなんですが」
黙ってうなずき、応接室と社長室を兼ねた部屋を指さした。

アパートを、囲むようにしてあるブロック塀に寄せてバンを止めた赤松は、全部で八世帯が入っている建物を見上げ、右端にあるコンクリートの階段を上がった。

果たして門田と向かい合ったときなんといおうかと、それだけを考えてドアの前に立つ。

チャイムを鳴らし、居住まいを正した。
ところが、あのぶっきらぼうな声を予想していた赤松の耳に聞こえたのは、予想外に若い女の声だった。

赤松が逡巡(しゅんじゅん)しているのを見た彼女は、「じゃあ、直接、行って会ってやってください。彼、きっと喜ぶと思いますから」といった。

「そんなことは……」
言葉に詰まった。目を伏せた赤松はそのとき、彼女のお腹が膨らんでいることに気づいて視線を上げる。つぶらな瞳が赤松を見ていた。

雨足は少し強くなったり弱くなったり、それに合わせてワイパーを点けたり切ったりを繰り返しながら、赤松は一途な顔でフロントガラスを睨み付けている。

周囲の光景は、住宅街から、工場が建ち並ぶ殺風景な界隈へと変貌していった。国道を渡り、海に近づくにつれてその光景はさらに工業地帯の色彩を強め、空と同じ灰色を車窓に運んでくる。

男は一瞬恨めしそうに天を見上げ、それから傍らに置いた軍手が濡れないようにそそくさとレインコートの中に押し込んだ。それから膝の上に広げた弁当に、覆い被さるようにして箸を動かし始める。

「いいか、ぶつくさいわず戻ってこい。いや、戻ってきてくれ。我が社はお前みたいな野郎が必要なんだよ」
門田はこたえず、ぐっと奥歯を噛みしめた。必死の説得を試みたはずの赤松は、その表情を凝視。門田がふっと笑いをこぼした。

公園の入り口を出て振り返ると、まだ固まってしまったように動かない門田の姿があった。

「まあ機械三台については補償してもらったんだけどさ、実はあの代替機が間に合わなくてね。なにしろ、最新鋭の機械だろ。受注生産しているわけだよ。壊れましたからといってすぐに別の機械を持っていくというわけにいかない。わかるでしょう」
赤松運送にとって、仕事をくれる重要なキーパーソンである平本は、噛んで含めるようにいう。

深々と頭を下げた赤松を、平本は感情を映さない平板な眼差しで見つめた。

平本はよそよそしく視線を外してタバコに火を点けた。
「頭を下げられても困る」
硬い返事だ。

「いいたいことはわかる」
平本は煙と共にいった。

「課長!」
追いかけようと腰を上げた赤松に、平本は手のひらを返すように厳しい顔を向けた。
「話は終わり!」

これは大変なことになったぞ、という思いは、足元からじわりと這い上がってくる。
心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚え、どっと額から冷や汗が滲み出た。

「ぼく、眠くない」
拓郎は頑なな口調でいう。
「じゃあ、パパと寝ようか。それなら眠くなるだろう」
赤松を見上げてきた表情の中でためらいが動いたが、赤松が席を立つと黙ってついてきた。
何かいおうとした史絵を軽く手で制し、赤松は二階にある子供部屋で拓郎をベッドに寝かしつけた。

キッチンにもどった赤松はテーブルに並んだ食事に箸をつけた。史絵はテーブルの反対側に座り、両手で湯飲みを包み込むようにしている。
何かいいたそうなのは、その様子からすぐにぴんときた。

「あの人って誰?」
史絵は意味ありげな眼差しを赤松に向けた。「片山さんよ」