小説を楽しんでプラス

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小説を読もう「死神と藤田 伊坂幸太郎」の言葉表現


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死神の精度 伊坂幸太郎 (著)

若者はそのセーターの首まわりをぐいぐいと引っ張ってくる。降り止まない小雨で、路上に水溜まりができていたらしく、私はそれを踏んだ。足元で、地面が舌なめずりをするかのような音を鳴る。


「おまえ、栗木の居場所を知ってるんだってな」若者の茶色と黒の二色になった髪が、濡れてぺしゃんこになっていた。かなり長い間、私を待っていたのだろう。


辿り着いたのは、築二十年以上と思われるマンションだった。白かったはずの外壁は、煤(すす)を塗られたかのように暗くなっている。


八階建てで、階段や通路には線埃が溜まっている。非常階段は錆びているし、エレベーターは黴(かび)臭かった。通路の蛍光灯も古いのか、あちらこちらで点滅を繰り返している。隠れる場所としては適切だった。


台所の角の冷蔵庫から発せられる低い音が床を這って、伝わってくる。


藤田の目に力が入るのが、見て取れた。口がへの字に強く結ばれる。


藤田もそこで、足を止めた。阿久津の顔を見た。その後で、私に一瞥(いちべつ)をくれる


ゆっくりと動くワイパーが、フロントガラスを撫でる。


「関係ねえだろうが」と阿久津は答えながらも眠そうに欠伸(あくび)を二度、三度と繰り返した。目尻には目やにが伸びていた。


ハンドブレーキを引き、阿久津がこちらに顔を向けた。真ん丸い鼻が、彼の容姿全体を幼く見せている。


セダンがまた停止する。渋滞からはなかなか抜け出せないらしい。ゆかるんだ沼から、足掻(あが)いても足掻いても出られないのと似ている。


阿久津は寒くないはずなのに、足を小刻みに揺らしはじめた。苛立ちが震動となって、私の尻に伝わってくる。


阿久津はすでに私のことを「得体の知れない敵」とは認識してはいないようで、「得体の知れない同居人」程度にしか警戒をしていなかった。心なしか、彼の呼ぶ、「おっさん」の言葉にも、何らかの親しみが含まれはじめている。


電話は切れた。阿久津は舌打ちをし、ソファに戻ってくる。現実には見えない巨大な石の塊を背負っているかのような、苦しげな顔を見せた。


「何でもいい。大勢の敵だ」阿久津は、知恵の回らない者がムキになるように、語調を強めた。「大勢の敵相手に、立ち向かえると思うか?勝てると思うか」


「負けてほしくないんだ」阿久津は天井近くに目をやったが、それは壁紙の模様ではなく、別のものを睨みつける風でもある。「負けるわけねえって」と繰り返す言葉は、断定口調ではあったものの、どこか震えていた。


阿久津に目をやる。黙り込んだまま、手に血管が浮き出るくらいに、強くハンドルを握っていた。恐怖心に襲われているのは明白で、今にも、歯を鳴らし出すのではないか、と私は思いもした。


そろそろ行くか、と私はドアに手をかけたが、そこで、「ああ」と阿久津が情けない声を上げた。フロントガラスをまっすぐに見たまま、口を開け、固まったかのように動かない。私も同じように前を見て、「なるほど」と返事した。


「そっちの奴は吐かないのか」と栗木は、右手に持った煙草ごと私を指した。


「おっさん、裏切りやがったな」阿久津は喉から血を出すかのようだ。「藤田は、おまえを助けにくる」私は言う。任侠の男が、やってこないわけがない。「てめえ」阿久津が奥歯を砕くような、顔になった。「それがこいつらの狙いなんだよ。藤田さんを殺してえのか」


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死神の精度 伊坂幸太郎 (著)