小説を楽しんでプラス

主に私が作成した超短編小説(ショートショート)を記事にします。ほかにお気に入りの小説を紹介します。

小説を読もう「恋愛で死神 伊坂幸太郎」の言葉表現


f:id:sujya:20180814225352j:plain
死神の精度 伊坂幸太郎 (著)

「おはようございます」荻原が挨拶をした。見ればその前に、先ほどの女性が立っていた。彼女はゆっくりと、首だけで振り返り、「あ」とも「ああ」ともつかないぎこちない声を出して、「おはようございます」と答えた。儀礼的なものに感じた。


宅配便のトラックが前を通過し、車道に溜まった水を私たちの近くへ、ばちゃばちゃと弾き、その音が、荻原と女の会話をそれきりにさせた。


「千葉さん、彼女いるんですか」荻原が羨む声を出した。囁く声でふっと波でも立たせるように、「羨ましいな」と呟いた。


「荻原は、恋人がいないのか」興味はなかったが、私はそう訊ねる。
「ですね」と返事をした彼は、バスを降りるあの女性の背中を、ずっと目で追っていた。


「あー」と荻原は間延びした声を出した。人間が、自分の思考を整頓する際によく発する、空洞を風が抜けるかのような音だ。


荻原の働く店へ顔を出した。巨大な広告が貼られた筒型のビルの三階で、エスカレーターを上がった右奥の場所がそうだった。大文字と小文字の混じったアルファベットが五つ連なる店名が、壁に書かれている。床が白と黒のタイルになっていて、全体に無機質な冷たさを感じさせる。


「荻原君の知り合い?」と私に首をかしげた。骨の動きを感じさせない、くねくねとした仕草だった。


「ねえ、千葉さん、荻原君の眼鏡ってほんと、最悪だと思わない?」店長の彼女が同意を求めてきた。「外せばこんなに格好いいのに。しかも度が入ってないし」と荻原の顔の前で、指をくるくると回す。


彼はその時の様子を思い出しているのか、一瞬だけ遠くを眺める表情になった。


「それでも彼女、悩んでましてね」荻原はこめかみを掻いた。


「だから」彼は唾を飲んだ。「だから、彼女と親しくなりたいと思ったのかも」


「まさか」荻原はそれだけは誤解されたくないのか、ひときわ大きな声を発した。


雨が降っているが小雨で、灰色のアスファルトを、湿った藍色にする程度だった。


「あの」古川朝美の声が、その語尾が揺れた。


彼女はそれを聞くと腕時計を眺め、そわそわして、「すみません。最近、わたし、いろいろあって」早口になった。視線が定まらない風でもある。


隣の荻原が唇を結んだまま、言葉を飲み込んでいる。私の想像だが、彼はもしかすると、「恋人はいるのか?」と訊きたかったのかもしれない。


「答えたら駄目だ」私は思わず口を挟んでいた。
「えっ?」二人が同時に、私を見る。


古川朝美はそこで、深く溜め息を吐いた。後悔が浮かんでいる。


「いえ、名前とか住所とかは伝えなかったんですけども、でも、喋っているうちに」恐怖のせいなのかいったん口ごもる。そして、気持ちを落ち着かせるように一回まばたいた。
「うちに?」
「急に、声の雰囲気が変わって、『君、声が可愛いね。会ってみようよ』とか言い出したんです」


「だから、一昨日は、出勤しなかったのか?」私は先回りをした。


せっかくだから一緒に座っていいですか、と荻原が言った。私が承諾も拒絶もしないでいると、彼は向かい側の座席に腰を下ろした。


「ああ、でも今日は、これを聞きにきただけだ」私は指を上に向ける。先日来た時と同様に、大バッハのチェロの曲が流れていた。



「何もないですよ」荻原が面倒臭そうに、否定した。私に視線を向け、「ですよね」と強制力を滲ませた言い方をする。



「ただではあげられないね」店長は鼻をこすり、挑発的な、幼稚とも言える目で、荻原を睨んだ。



「あら!」と古川朝美が間延びした声を発した。「そうなんですか」
「古川さんといくのはどうかな、と」荻原は小声になった。「思って」

f:id:sujya:20180814225352j:plain
死神の精度 伊坂幸太郎 (著)