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人生も後半戦

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

人間になれなかった妖怪

ここは妖怪の世界。

僕はここで暮らす一つ目小僧という妖怪だ。頭が真ん丸で、髪の毛はない。そして大きな特徴は、目が額の真ん中に1つだけあることだ。


 僕は学校で『人間の心得』を学んで、すごく感動した。もっと『人間の心得』を学び、卒業したら人間になって、人間界で幸せな生活を送ろうと思っている。


 僕に『人間の心得』を教えてくれているのは、小豆洗いという先生だ。先生は『人間の心得』を教えているが、人間には、なりたくないらしい。先生に何故、人間になりたくないのか聞いたことがある。その時の先生の答えは、こうだった。


「『人間の心得』を学ぶことは、非常に素晴らしいことだ。しかし、人間になって人間界で暮らすことは、あまり素晴らしいと思わない。『人間の心得』だけを身に付け、妖怪として生きるのが一番幸せだ」


 僕は、その意味が理解出来なかった。せっかく『人間の心得』を学んだのに、人間にならないなんて、それなら学ぶ意味ないじゃないか。そう思っていた。僕は絶対に人間になって幸せに暮らすつもりだった。

 『人間界の心得』

 1、相手へのおもいやりの心を持つ。こんな風にすれば相手が喜ぶだろうなと思う事を実践する。

 2、相手の立場に立って考える。相手と一緒になって苦労し努力する。協力的な精神を持つ。

 3、自己犠牲の精神を持つ。相手の利益になること、喜んでもらうことを分け与える

 4、相手に文句を言ったり傷つく言葉を使わないで、相手が気持ちよくなる言葉で話す

 ある日、僕は友達のからかさ小僧と街に出た。からかさ小僧は人間になることには興味が無いみたいで、妖怪のまま暮らしていくそうだ。

「一つ目小僧よ、そんなに人間になりたいのか」

 からかさ小僧が傘を半分だけ開いて、僕と同じ1つの目をパチパチしながら、不思議そうに聞いてくる。

「うん、僕は人間になって、幸せな生活を送りたいと思ってるんだ」

「人間て、そんなに幸せなのかな。妖怪の方が自由で楽しく生きてるんじゃないかな。将来の事だから慎重に考えた方が良いと思うぞ」

 今度は、傘をぎゅっと閉じて、真剣な表情だった。

「妖怪の世界は、妬みや醜い争いが多いから好きじゃないんだ。その点、人間は心が綺麗で優しいだろ。だから、人間界で暮らしたいんだ」

「人間界も妖怪の世界も、そんなに変わらないと思うぞ。教科書には、良いことしか書いてないからな。それを鵜呑みにするのはどうかと思う」

「からかさ小僧は人間界に詳しいの」

「詳しくはないけど、たまに人間界を覗きに行ったりしてるんだ。人間はそんなに幸せそうに見えないけどな」

「えっ、勝手に人間界に行ってんの。それダメだよ、怒られるよ」

「そんな堅いこと言うなよ、みんな行ってるよ」

「人間に見られたらヤバイんじゃない。捕まって焼かれたりするって聞いたよ」

「ハッハッハッ」

 からかさ小僧は傘をバサバサとしながら、大声で笑った。

「お前は真面目すぎるよ。見つかっても大丈夫だよ。捕まるどころか、人間は俺の姿をみると腰抜かして逃げて行くよ。のっぺらぼうなんて人間を脅かすのが趣味で、休みの日は毎日人間界に行ってるよ」

「のっぺらぼうは、そんな悪いことしてるんだ。真面目そうな顔してるのに」

「なんで、のっぺらぼうなのに真面目そうな顔なんだよ、意味わかんねぇな。ハッハッハッ」

 からかさ小僧は傘を一段と大きく開いて、笑いが止まらないようだった。


「ハッハッハッ、それじゃあ、のっぺらぼうも呼んで人間界に連れていってやるよ」

「そんなことして大丈夫かな。怒られないかな」

「何、ビビってんだよ」

 からかさ小僧が傘の先で僕の脇腹をツンツンとつついてきた。

「くすぐったいから、やめてくれよ」 僕は、からかさ小僧の傘の先を払った。

「へへへ、じゃあ、約束な、のっぺらぼうにも声かけとくから、3人で人間界に行こうぜ」

「えっ、ほんとに行くの」

「当たり前だ」

 そんなわけで、僕は、からかさ小僧と、のっぺらぼうとで、人間界に行くことになってしまった。

「ここが人間界か」

 白い雲に青い空はとても綺麗だ。街も鮮やかな色をしている。人間界は美しいなあ。僕は初めての人間界を興味深く見ていた。

「別にたいしたことないだろ」

 からかさ小僧が僕の頭の上に乗りながら言った。

「重たいから降りてくれよ」

「へへへ、そっか、ここからの方が見晴らし良いんだけどな、ヨイショ」

 からかさ小僧はピョンと僕の頭から飛び降りた。

「人間には僕たちの姿は見えないの」

「ああ、大丈夫だ。俺たちが念じない限りは見えないよ。そうだよなぁ、のっぺらぼう」

 今度は、のっぺらぼうが僕の頭に乗って、あぐらをかいている。

「そうだなぁ、普通の人間は、わしらの姿は、見えとらんなぁ。たまぁに見える人間もおるけどもなぉ」

「なんで、2人とも僕の頭に乗るんだよ。降りてよ」

 僕は、のっぺらぼうを持ち上げて、地面に置いた。

「それじゃ、人間のいる所へ行こうぜ。ちょっと脅かしてやろう」

「ダメだよ、そんなことして、人間に捕まったらどうするんだよ」

 からかさ小僧の足を掴んだけど、からかさ小僧は傘をバサバサして、僕を振り払った。

「大丈夫、心配いらないぜ」そう言って先に歩いて行った。

 のっぺらぼうも、からかさ小僧にノソノソとついて行った。

「待ってよ、僕も行くよ」僕は2人を追いかけた。

「おいっ、人間がいたぞ、子供のようだな。なんか揉めてるぞ」

 10歳くらいの子供が3人で公園にいた。

 背が高くて細いガイコツみたいな少年が、少しぽっちゃりした子泣き爺みたいな少年をいじめているようだ。

「おい、デブ、太ってるからトロいんだよ。俺らの足ばっかり引っ張りやがって。お前のせいで今日も負けたじゃねぇか」

 子泣き爺少年は、頭をバットでこつかれた。

「ごめんなさい」

「謝ってすまねえんだよ」そう言って、今度は子泣き爺少年を蹴飛ばした。

「ごめんなさい」

「謝ってもすまないって言ってんだろ。何度も言わせんな、このバカ」

 ガイコツ少年が、子泣き爺少年の耳元で怒鳴った。

「よし、後は俺にまかせろ」

 後ろで見ていた、もう1人の少年がポケットに手を入れて近付いてきた。

「このバカが」

 子泣き爺少年の耳元で、そう言ってから思いっきり強く蹴飛ばして、そして殴った。体は3人の中で一番小さいが、眼光がするどく狼男みたいな少年だ。こいつがリーダー格のようだ。殴られた子泣き爺少年は頭に手をやって小さくなっていた。狼男少年は子泣き爺少年の胸ぐらをつかんで、睨み付け、また殴ろうとした。

「ムゥ~ムゥ~」

 のっぺらぼうが、変な声を出していた。

 次の瞬間、のっぺらぼうが狼男少年の眼の前に姿を出した。顔は紅くなり、大きさが3倍くらいになっていた。怒っている様子だが表情はわからない。顔が紅くなっていたので怒っているのだろう。狼男少年は、のっぺらぼうの姿を見た瞬間、驚いて腰を抜かしてしまった。

「でっ、でた~、お、お、お化けだ~」

 狼男少年とガイコツ少年は走って逃げようとしたが、その前に今度は、からかさ小僧が現れた。からかさ小僧は傘を広げて、グルグルと回り、つむじ風を起こした。

「ギャァー、た、た、たすけてぇ~」

「抵抗しない者をいじめるお前らは最低じゃ~。俺が食い殺してやる」

 からかさ小僧が、口を大きくあけて睨み付けた。

「ウェーン、ウェーン、ごめんなさい」

 少年2人は泣き出してしまい、走って逃げてしまった。

 子泣き爺少年は、キョトンとして立ち尽くしていた。この少年には、のっぺらぼうも、からかさ小僧も見えてなかったようだ。

「ハッハッハッ」

「ヒッヒッヒッ」

「ヨッシャ~」

 からかさ小僧とのっぺらぼうは笑いながら、ハイタッチしていた。

「あのバカ野郎が。弱いものいじめしやがって。ホント人間は下等な野郎だ」

 僕はビックリして子泣き爺少年と同じように立ち尽くしていた。

「2人共、すごく怖かったよ。あんなに怒った姿、初めて見たよ」

「俺達、妖怪の外見は、みんなバラバラで個性的じゃないか。俺は傘の形してるし、君は頭が丸いし、のっぺらぼうなんて、こんな顔だぜ」

 からかさ小僧は目を閉じて無表情になって、のっぺらぼうの顔真似をしていた。

「でも、そんな事でいじめたりしないだろ。けど、人間はちょっと違うだけで仲間はずれにしたり、バカにしたりするんだ。本当に酷い生き物だ」

 からかさ小僧は、傘をぎゅっと閉じて怒っている様子だ。のっぺらぼうも顔を紅くしている。頭から湯気が出ていた。僕は2人のいつもとは違う一面を見た気がした。

「じゃあ、次、行こうか」

 からかさ小僧が気をとり直したようで、跳ねながら走り出した。後ろから、のっぺらぼうがスキップしながらついて行った。 僕も置いてけぼりにされないように走ってついていった。

 今度は高層マンションのエレベーターの中だ。人間界の建物は本当にすごい。こんな高い建物を建てる人間の技術は素晴らしいと思った。

 エレベーターに2人の女性が乗っていた。年齢はどちらも40歳位だろう。2人共、身長が高くモデルのように美しい。化粧のせいもあるだろうが、同じ顔に見える。違いがわかるのは、コートの色が黒とベージュの違いくらいだ。

「1503号室の佐伯さんの息子だけどさぁ。あの有名私立中学、金泉中学に行くらしいわ」

 黒いコートの女性が、エレベーターの中で2人っきりなのに、ヒソヒソ話のようにベージュのコートの女性の耳元に話しかけていた。

「へぇー、あそこの中学は勉強が出来るって有名だけどねぇ」

 ベージュの女性が、口に手を当てて、あきれたような顔をしていた。

「あの息子、どう見ても勉強出来そうには見えないでしょ。お金の力じゃないの」

「あたしもそう思う。あの息子、あたしに会っても挨拶も出来ないからね。しつけがなってないわ」

「母親だって挨拶しないし、ゴミ出しのルールは守らないし、親も親なら子も子だわ」

「聞いてらんねぇや」

 からかさ小僧がそう言って、エレベーターの非常ボタンを押した。エレベーターは止まってしまった。

「あら、何、急に止まったわよ」

「故障かしら」

 インターホンから声が聞こえてくる。

「妬むんじゃねぇよ。バカヤロー! てめぇらは、バカか!」

 からかさ小僧が怒鳴った。

「今、声が聞こえなかった? 何よ? 怖い」

 のっぺらぼうがエレベーターの照明を消してこう言った。

「お前たちをうらんでやるぅ~」

「キャー、誰か助けて~」

 僕たちは笑いながらエレベーターから出ていった。

「ハッハッハッ」

「ヒッヒッヒッ」

「ケラケラケラ」

 からかさ小僧は楽しそうだ。のっぺらぼうの表情はわからないけど、笑い声が聞こえるし、スキップしてるから楽しいんだろう。僕も楽しくなってきた。いつも、彼らといると楽しいんだけど、今日は特に楽しい。

 からかさ小僧は、車のボンネットをピョンピョンと跳ねて道路を渡り、向かいのビルに入っていった。僕とのっぺらぼうは、横断歩道を渡って、後を追いかけビルの中に入った。

 オフィスのようだ。受付の綺麗な女性達の前を堂々と通ったが、女性達は僕達に気付いていないようだ。 人間の女性は綺麗だなぁ。僕は見とれてしまった。

 1人はショートカットで目がクリッとした可愛い女性だ。猫娘もこれくらい可愛いければ良いのになぁ。

 もう1人は背が高くて髪の長い、切れ長の目が魅力的だ。機嫌の良い時の雪女に少し似ている。

 2人の話し声が聞こえてきた。

「さっきの客、最悪だったわね。ぶさいくな顔してるくせして、食事に誘ってくるし気持ち悪いわ」

 雪女みたいな受付嬢が不機嫌そうな顔で話していた。僕は綺麗な顔だった女性が、砂かけハバアの顔に変わったように見えた。すごく似ていた。

「うちに来るのって、あんな奴ばっかりだね。うんざりだわ」

 猫娘より可愛かったはずの女性の顔も、砂かけハバアみたいになった。

 のっぺらぼうが受付の前に立っている。何かやらかしそうだ。

 次の瞬間、女性の悲鳴が聞こえた。

「ギャ~、お化け~」

 のっぱらぼうは鏡を受付嬢の顔に向けて立っていた。受付嬢は鏡に映った自分達の顔を見て驚いたようだ。

「ヒッヒッヒッ、鏡に映った自分達の顔を見て驚いてるぞぉ」

「ハッハッハッ、さすが、のっぺらぼうだな。いつも笑わせてくれるぜ」

 僕もケラケラと笑ってしまった。

「次は上の階に行ってみようぜ」

 からかさ小僧が階段をトントンと上がっていった。僕とのっぺらぼうは、いつも通り後ろからついていった。

 3階のオフィスに入った。スーツ姿の男性数人が椅子に座っている。会議が始まるみたいだ。

「部長はまだ来ないのか」

 キツネ目をした男がテーブルをボールペンでトントンと叩きながら言った。

「10分位、遅れるって、さっき連絡入ったよ」

「えー、遅れるのかよ。自分からミーティングやるぞって言っておいて何なんだよ。こっちは、忙しいのに無理に時間作ってやったのによぉ」

 キツネ目が一段とつり上がり、ボールペンの叩き方が強くなっていた。

「いつものことじゃねぇか、カッカしてもしかたないぞ」

 他の男の人がなだめていた。

「あのバカ、ムカつくんだよな。いっつも遅れるし、打ち合わせしたところで、意味もない自分の自慢話ばっかり話してるし」

 キツネ目の男の人は、一段と機嫌が悪くなったようだ。他のメンバーはスマホをいじっていたり、腕組んで居眠りしたりしていた。しばらくして、部長が入ってきた。

「すまんな、遅くなって」

「部長、お疲れさまです。こちらこそ、部長に時間をとっていただき有難うございます」

 つり上がっていたキツネ目が下がっていった。

「少しは、打ち合わせを進めているのか」

 部長が椅子に腰掛けながら聞いた。

「いえ、部長をお待ちしておりました」

「先に初めてくれてて良かったのに。私なんていなくても、君達だけで大丈夫なんだから、ハハハ」

「そんな事はありません。部長のご判断がないと良い案が出てきません」

 キツネ目の男がハエのよう手を擦り合わせていた。

「この人、さっき話してた事と全然違うよね」

 僕は首をかしげながら、からかさ坊主に尋ねた。

「まあ、そうだわな」

 からかさ坊主はニタニタしていた。

「これが人間界なんだよ」

「どういう意味?」

「人間界は裏と表の顔を持ってんだなぁ。それをうまく使い分けんといかんわけだなぁ」

 のっぺらぼうが、僕の頭の上であぐらをかきながら教えてくれた。

「裏と表の顔か。よくわかんないな」

「一つ目小僧には、ちぃと難しいなぁ。あんたは純粋だからなぁ」

「いろいろ教えてくれて有難う。でも、僕の頭の上であぐらをかくのはやめてくれる。一段と背が低くなっちゃうよ」

「そうかい残念だなぁ。一つ目小僧の頭はツルツルしてて、気持ち良いんだけどなぁ」

 のっぺらぼうは頭から降りてくれたけど、僕の頭を撫でながら言った。

「そうそう一つ目小僧の頭に乗っかると、気持ち良いし元気が出るんだよな」

 今度はからかさ小僧は僕の頭をポンポンと叩いた。この2人は、いつもこうだ。僕をからかって喜んでいる。でも、2人と遊んでいると楽しい。今日もすごく楽しかった。


 帰り道にからかさ小僧が人間界の感想を聞いてきた。

「初の人間界はどうだった?楽しかったかい」

「楽しかったけど、人間界は僕の思い描いてたのと違ってたよ。僕には難しいかもしれない」

 僕は初めて見た人間界に少しショックを受けていた。

「そうだろ、俺は一つ目小僧に人間界は向いていないと思ってたんだ」

 からかさ小僧は真剣な時は傘をギュッと縮める。

「わしも、からかさ小に同感だなぁ」

 のっぺらぼうも多分、真剣なんだろう。

「それでも人間界に行くのか」

 からかさ小僧が足を止め振り返って、僕に言った。からかさ小僧にぶつかりそうになって、僕も立ち止まった。

「うん、やめようかなと思っているよ」

「よーし」

 からかさ小僧と、のっぺらぼうが飛び上がってハイタッチした。

「なんで、喜んでるんだよ。僕は人間界に幻滅して落ち込んでるのに」

「ごめんよ、でもな、おれ達は君に人間界に行ってほしくなかったんだ。行ってしまったら3人で遊べなくなるんだぜ。それに君は人間界より妖怪の世界の方が合ってると思っていたんだ」

 からかさ小僧は、今日僕を人間界につれてきたのは、それに気付かせる為だったんだろうか。僕はそんな気がした。

「僕には人間界は難しいとわかったよ。帰ったら、小豆あらい先生に、この事を伝えに行ってくるよ」

「よーし、じゃあ、急いで帰ろうぜ」

 からかさ小僧はピョンピョンと跳ねて走って行った。僕は走って追いかけた。のっぺらぼうは僕の頭の上であぐらをかいている。重たくて走りにくいけど、まぁいいか。


 僕は次の日、あずき洗い先生に人間界に行かないことを伝えに行った。あずき洗い先生は、この時間、いつも職員室の奥にある部屋で本を読んでいる。僕はノックして奥の部屋に入った。

「先生、おはようございます」

 先生は今日も本を読んでいたようだが、僕の姿を見て本を机の上に伏せた。

「やあ、おはよう。今日はこんなに早くどうしたんだい。『人間の心得』でわからない事でもあるのかい」

「いえ、そうじゃないんです。先生、実は人間界に行くのをやめることにしたんです」

「ほほぅ、どうしましたか。あれだけ人間になりたがっていたのに。まあ、掛けなさいよ」

 先生はそう言って、椅子を手で指した。

「実は、昨日勝手に人間界に行って来たんです。ごめんなさい」

 僕は椅子に座らずに頭を下げた。

「そうでしたか、まあ掛けなさいよ」

「人間界に勝手に行って本当にごめんなさい」

 僕はもう一度頭を下げてから、椅子に座った。

「人間界に行ったのですか。特に禁止しているわけではないですが、危険なのでね」

 先生はニコニコしていた。

「初めて見た人間界はどうでしたか」

「本物の人間界を見て、僕に合っていないかなと思ったんです」

 先生は静かに深く頷いた。

「やっぱりそうですか、私は良い選択だと思いますよ」

 先生は人間界に行った事を叱ることはなかった。ずっと笑みを浮かべ、どちらかと言うと嬉しそうだった。

「あなたは、妖怪の世界の宝になる方だと思っています。人間の心得を妖怪の世界に広めて頂きたい。そして、妖怪の世界をもっと住みよい世界にしてほしい。私はそう思っていました」

 いつものように、おだやかで優しい口調だった。

「人間の心得を妖怪の世界で広める活動をしている先生を尊敬しています。僕もいつかは先生のようになりたいです」

「嬉しいことを言ってくれますね。でも、私は、そんな大した妖怪ではありませんよ」

 先生は少し照れた様子だ。

「先生は人間界に行ったことはあるのですか」

「行ったことがあるというより、私は昔、人間だったんですよ。『日顕』という小僧でした。当時、私は住職から可愛がってもらい、住職の後を継いでほしいと言われたんです。その時はすごく嬉しかった」

 先生は部屋の窓から見える景色を眺めて、昔を懐かしんでいるようだ。

「しかし、その事を妬んだ他の小僧に、私は井戸に落とされ殺されてしまったんです。その後、私は小豆あらいになり、こうして妖怪の世界で暮らしているというわけです」

 先生は話し終わると、窓の景色から僕に視線を移した。

「そんな酷い目にあったんですか。先生は人間界が嫌いになったんじゃないですか」

「嫌いにはなりませんでした。しかし、人間界は難しいと思いました」

「昨日、人間界を見てきたので、わかる気がします」

「人間界、妖怪の世界、関係なく、妬みや憎しみが無くなれば良いと思っています。私は妖怪の世界から、それに取り組もうと思ったわけです。私には人間界は少し複雑で難しいですからね」

「そうですね、僕も人間界も妖怪の世界も良くなればと思います」

「君はまだ若い。これから両方の世界を素晴らしい世界にしてほしい」

 その後、僕は妖怪の世界に残り、妖怪の世界で先生といっしょに人間の心得を広める活動に取り組んだ。からかさ小僧や、のっぺらぼうも手伝ってくれている。

 それから人間界も良くしたいので、3人で人間界に行って、イタズラを繰り返している。イタズラと言っても人間の心得が出来ていない人間を見つけては、脅かしているのだ。誰にでもある、ちょっとした悪魔の心、それが出てきた時に、脅かすことで人間の本来持っている綺麗な心を引き出すようにしている。

「一つ目小僧よ、次は、あの学校に行ってみようか」

 からかさ小僧がピョンピョンと走っていった。

「イジメがあるみたいだから、ちょっと懲らしめに行くぞ」

「からかさ小僧ちょっと待ってよ。あまり過激な脅かし方はやめてよ。子供だからね」

 僕は息を切らし追いかけた。

「おーい、ハァハァハァ、ちょっと待ってよ。のっぺらぼう走りづらいから、僕の頭から降りてよ」