小説を読もう「償い 矢口敦子」

「償い　矢口敦子」の表現

３６歳の医師、日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れついた街で社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った少年が犯人ではないかと疑い始めるが……。

償い (幻冬舎文庫)

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矢口 敦子 幻冬舎 2003-06-01

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書き出し

そのころ、男は羽をもがれた蝿のように地べたを這いずりまわっていた。
埼玉県光市、新宿から東部線の快速電車で三十分のベッド・タウン。男がいつこの土地に足を踏み入れたのか定かではない。そもそもここが埼玉県光市だということやを、男は認識していない。

▼この先は、私が表現力を学ぶために、参考にできそうな文章を残しています。 クリックで展開

取調室には机がひとつあり、おの前におっさんが座っていた。
おっさんは、顔もくたびれていれば背広やネクタイもくたびれていた。こんな夜中に仕事なんかしたくないという色があけすけに見えた。枯れ木のような体格だ。

やや出っ張った大きな目の周辺には無数の皺が刻まれ、短く刈り込んだ頭は胡麻塩だ。もうじき定年退職という年齢だろう。

本名？　そんなものはもうない。
男が唇を結んだままでいると、刑事の顳顬(こめかみ)にかすかな怒りが浮かんだ。丁寧にあつかう気が失せたらしく、恫喝めいた低音になって、「日高英介だろう。運転免許証にそうあったぞ」

一人の少年が男を見下ろしていた。居眠りしているだけならその席をよこれ、と全身が言っている。

少年は、うっすらと眉をあげた。戸惑いとも立腹ともとれる表情だ。

少年は唇のはしを曲げた。冷笑に見えた。

透明な空で太陽が輝いている。風もなく、暖かだ。

少年は怜悧(れいり)な瞳で男を見つめた。

少年は、しばらく言葉を口の中でころがしていた。それから、挑戦的に光る目を男にむけて言った。

ドーナｯツの残りを口に押しこみ、コーヒーで飲み下ろしてから、テーブルに身を乗り出した。

周囲をはばかって、山岸の声はごく低い。日高は、全神経を耳に集中しなければならなかった。それでも、店内のざわめきがしばしば邪魔になる。

山岸は言葉を切って、日高を見た。日高が無言のままなので、ふたたび口を開いた。

警察署と市役所が見える。両方とも、タイルや花崗岩を使った見栄えする中層ビルだ。

どうして救急車を呼ばなかったんだ。そう怒鳴りつけた時広恵の顔が、眼前に鮮明に浮かぶ。もともと蒼白だった顔からさらに血の気が退き、唇がわなないた。広恵はこぼれ落ちそうなほどに大きな目になって、一瞬日高を睨みつけた。それから視線は大輔にむけられた。
ベッドの上ですべての医療機器がはずされ、眠っているような表情の、その実なんら生体反応を示さない大輔に。広恵はそれから二度と日高に視線をむけなかった、最後の瞬間が来るまで。

「何を考えているの」
声がした。知的に冷たい二つの瞳が、日高見ていた。

昨日桜町公園の横を通りかかるのを見かけたが、つい声をかけそびれた。真人が自分の中にあまりに深く埋没しているようだったから。

日高はつい逃げ腰になった。真人は眉ひとつ動かさず、黙殺した。

真人は、獲物にむかう猟犬のようにまっすぐつき進んでくる。
「訊きたいことがあれば、僕に直接訊けばいい。こそこそ探っていないで」

三井の口もとに少なからぬ緊張が走った。しかし三井は、淡々としゃべった。

襟首をつかまえられた気分で。日高は美和子のあとについていった。

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