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小説を読もう「シグナル 関口尚」の言葉表現2

関口尚のシグナルの表現をまとめただけの資料です。

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シグナル 関口尚
商品説明
映画館でバイトを始めた恵介。そこで出会った映写技師のルカは、一歩も外へ出ることなく映写室で暮らしているらしい。なぜ彼女は三年間も閉じこもったままなのか? 「ルカの過去について質問してはいけない」など三つの不可解な約束に困惑しながらも、恵介は固く閉ざされたルカの心の扉を押し開いていく。切なく胸を打つ、青春ミステリ感動作。



「またかよ」
上半身を起こしてため息をつく。南川さんから言い渡されたみっつの約束と、ルカについての話を、ときどき春人に聞かせていた。こんなおかしなことがあったんだよ、と愚痴まじりに話していたのだ。そうするうちに、春人はルカに興味を抱いたらしい。

「どう?技師長さんとはうまくやれそう?」
「どういう意味だよ」
「だから、付き合ったりしちゃうのかってことだよ」
もう一度ため息をつく。今度はもっと深いやつだ。

ルカと働く日々は薔薇色に彩られたあまやかな日々になるだろうと楽しみにしていたのだが、実際は下心なんてこなごなの鈍(にび)色の日々だった。

「だから兄ちゃんは駄目なんだよ」
春人がぼくの脛(すね)を叩いた。

「兄ちゃんって鈍いから気づかないのさ」
「失礼だな」
平手で春人の膝を叩こうとしたが、すっとよけられた。

「そういえばオヤジはどうした。襲来はないのか」
話題を変えると、瞬時にして春人の表情が曇った。「オヤジ」という言葉を聞いて苦々しい気分にならない人間は、うちの家族には誰もいない。

ぼくはオヤジについて、それから我が家が置かれている経済的にも精神衛生的にも危機的な状況について、打ち明けてみた。するとルカは仕事机の回転椅子を引き出して、背もたれを跨(また)いで座った。

「厄介?」
ルカは小首をかしげた。いつもは厳しい視線ばかり投げてよこしてくるが、いまはやけにやさしい目をしていた。話してごらん、とその目が語りかけてくる。溜まっていた鬱憤が、つい堰(せき)を切って流れ出た。

卑屈さを通り越して朗らかに笑ってみせると、ルカは瞳に悲しみの色を滲ませて黙ってしまった。

屋上の南端からは、渡良瀬川とその河川敷一帯を見渡すことができた。渡良瀬川はこの街を南北に分断しながら東へと流れていく一級河川だ。やがて利根川に合流して太平洋へと注ぐ。

ルカはフェンスに人差し指をかけると、前を向いたまま尋ねてきた。
「恵介が幼い頃の話だけどさ、お父さんの罵りってどんなふうだった?どんなことで怒るの」

「うちのオヤジ、ほんと些細なことでスイッチが入るんですよ」
「たとえば?」
たとえばですね、と前置きしてからぼくはゆっくりと語って聞かせた。

悔しくて涙を見せると、オヤジは抱腹絶倒といった様で膝を叩いた。

「なにを?」
「これを」
ぼくは足を振り上げて、勢いよく前へと突き出した。
「あぐらをかいたオヤジの背中を、後ろから蹴り飛ばしたんです」

「大丈夫だよ」
ふいにルカが言った。彼女はフェンスの向こうの空を見つめたまま続けた。
「大丈夫だよ、恵介。あたしはわかってる。わかってあげられるよ」
「なにをですか」
ルカが振り向いた。
「やさしいという生き方ほどつらいものはないってね」
一瞬、視界がぼやけ、世界中の音が遠のいた。そうした中で、ルカの言葉が清冽(せいれつ)な鈴の音のように響いていた。いままで言葉にできなかった錯雑とした思いを、きちんと隅々まで理解して、ぼくの代わりに言葉にしてもらったような気がした。

ルカが渡良瀬橋を指差した。夕暮れの空を背負った渡良瀬橋の姿、美しい影絵のようだった。

「おはようございます」
様子を窺いつつ挨拶する。
「あっ、宮瀬君。こちら」
ショートカットの女性を紹介しようというのか、南川さんが目配せしてきた。女性は顔が丸くて、目もくりくりと丸い。童顔だが二十代後半だろう。胸のネームバッヂに目を走らせると「江花」とある。

「ここでバイトして長いんですか」
「まあね。三年くらい働いたかな。前は」
江花さんはそう答えつつも、視線はぼくを越えて後ろのルカに向けられていた。声を一段高くした挑発的な口調でルカに語りかける。
「あら、久しぶりね」
「久しぶり」
ルカはそっけない。振り返ると、あからさまに不機嫌な顔をしていた。

探りを入れようか迷っていると内線が鳴った。
「はい、こちら映写室です」
内線は江花さんからだった。
宮瀬君ね。こちらチケット売場です。今日レディースデイだからさ、いまこっち混んでるの。すぐに助っ人に来て。それじゃ。
ぷつりと内線は切れた。
「技師長。チケット売場に助っ人に来てほしいって」
「誰から」
「江花さんからです」
「無理だって断って」
「もう切れちゃいました」
受話器を掲げて見せると、ルカの眉間に深いしわが寄った。
「いまこっちだって忙しいってのに」
低くつぶやいて、顎をしゃくって映写室のドアを指した。行ってこいの合図のようだ。

ルカはすっかり意地になっているようだった。こちらに背を向けてフィルムをかけた始める。
「運搬までには絶対に戻ってきますね」
その背中に語りかけたが、返事はない。黙殺といった感じだった。

「もう映写室に戻っちゃうの」
「技師長の手伝いをしなきゃいけないんで」
「えっ、なに?ルカのことを技師長なんて呼んでるの」
江花さんの言葉に棘(とげ)があった。
「ええ」
「あの子が技師とね」
笑わせるわ、とその顔に書いてある。ルカに恨みでもあるのだろうか。

「気をつけたほうがええわよ」
急に江花さんはそう言って、もったいぶるように横を向いた。横目でこちらを窺いながらつけ加える。
「ルカってとんでもない子だからさ」

なんとかしてルカをけなしたいといった底意地の悪さを感じる。ろくに会話をしたわけじゃないが、好きなタイプではないと思った。
「言いたいことは、それだけですか」
江花さんの右眉がぴくりと上がった。
「なに、あんた、わたしが言ったことをうたぐってるの」

「ばかね」
言いくるめるのに躍起になるうちに、苛立って相手を責める人がいる。自説を押しつけていることに気づかず、聞き入れない相手が悪いと興奮する厄介な人種だ。
「ばか、はないんじゃないですか」

「もう行っていいですか」
迷惑であることを語調でにおわすと、江花さんは顔を寄せてきて囁いた。
「実はさ、わたし知ってるんだ」
「なにがですか」
「ルカが本当はどんな人間か」

財布と携帯電話を引っつかみ、春人の顔を見ずに部屋を出た。ついてこられると面倒なので、すぐに自転車に跨がって珈琲会館へ向かった。

自転車を止めて中を覗き込んだ。江花さんがいなければ、それはそれでかまわなかったが、はたして彼女は窓際の席に座っていた。ぼくに気づき、満面の笑みで手招きしている。ずっと待ちかまえていたのかもしれない。
「やっぱり来たわね」
店内に入っていくと、江花さんは勝ち誇ったように言う。

江花さんは羽織っていた薄手のニットのカーディガンを脱いだ。中はピンク色のカットソーを着ていた。胸元がV字にざっくりと開いていて目のやり場に困る。

「お待たせ」
戻ってきた江花さんが、テーブルに両肘をついて座る。
「わたし、回りくどいの苦手だから単刀直入に言うね。宮瀬君はルカに近づくのをやめなさい」

ウェイトレスが、ぼくの注文を聞きに来る。メニューを急いでめくるが、江花さんはかまわずに言った。
「ルカとは必ず距離を置きなさい。わたしは宮瀬君のためを思って言ってるのよ」
「アイスコーヒーひとつ」
注文してからあらためて江花さんに問う。
「おれのためってどういうことですか」

江花さんはアイスミルクティーのストローをくわえると、上目遣いでひと啜りする。意味ありげにぼくを見上げてから微笑んだ。
「ねえ、宮瀬君。誰にも言わないって約束する?」