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人生も後半戦

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

森沢明夫さんの「大事なことほど小声でささやく」の表現、描写

 権田という巨漢が丸太のような首をねじって、ぬっとこちらに振り向いた。

 大胸筋の迫力が半端なかった。まるでそれ自体が別個の生き物みたいにメリメリとうねり、皮膚の下の筋繊維の束が透けて見えるようだったのだ。

 四角い顎と、張り出した頬骨と、意志の強そうな眉。頭はツルリと磨かれたスキンヘッドで、蛍光灯の光を見事に反射させている。

 その結界のなかに足を踏み入れると、明らかに空気の密度が濃くなった気がした。

 ゴンママがポーズをとった。ワイヤーみたいな筋肉の束がゴリゴリと動いて、血管がマスクメロンのごとくビシビシと浮き出した。

 その隕石のような台詞が本田の脳天を直撃するやいなや、ひとときの小さな至福など粉々に砕け散ってしまった。

 やがて、娘の両目の下まぶたに、ぷっくりと透明なしずくが浮かび上がった。最初のしずくがぽろりと頬を伝い落ちると、そのあとは立て続けに流れた。

 パリッとした黒と白の制服。後ろでひっつめた髪の毛の清潔感。弓のように凜と伸ばした背筋。

 さらに《追伸》を読んだとき、うかつにも涙ぐみそうになったけれど、公衆の面前だけに、本田は深呼吸をして目頭の熱を散らし、なんとかこらえた。

 やや芝居がかったような台詞を口にすると、グロスをたっぷりと塗りつけたセクシーな唇でそっとキスをするように、ブルームーンを口に含んだ。

 レモン色の陽光が、花柄のカーテンを透過して、アトリエをやわらかな光で満ちていた。

 冷えたままのコンビニ弁当をデスクの上に広げると、頼りないほどしなる割り箸でそれを突きはじめた。

 美鈴はのそのそとベッドから這い出して、気怠さと闘いながら身支度を整えた。食欲はなかったが、とりあえずカロリーメイトとオレンジジュースを胃に流し込む。

 部屋の時計のカチカチ鳴る音がやたらと大きく感じはじめる。

 ふわりと解き放たれた白い紙ヒコーキは、なんだか魔法をかけられた妖精の乗り物のようだった。とりわけ蒼(あお)い月明かりに映える翼は幻想的だ。きらめく鱗粉(りんぷん)の尾を引くように、闇のなかをぼんやりと輝きながらどこまでも飛んでいくのがいい。

「わあ、すごい腕の筋肉ですね」
 直球で褒める恵那に気をよくする単純な男たちのマヌケ面をチラッと見るだけで、俊介の内側には黒い熱が生じ、それを発散させたくて、つい、いつもより余計にダンベルを上げてしまう。

 ちょっと威圧感のある木製のドア

 はじめてまともに飲んだアルコールが、脳味噌に甘く染み込んでいって、世の中がみるみるバラ色になってしまったのだ。

 その夜は、しっとりとした小糠雨が降っていた。

 最後の一滴まで気力と筋力をふりしぼった。

 ひっそりと日陰の花みたいに微笑んだ。

 持っていた小銭をすべて使い果たして、空っぽなため息をついたとき、それがスイッチになったかのようにグウゥゥ~と腹の虫が鳴いた。

 カオリちゃんがくすっと笑う。そして、カナリアのような声で答えたのだ。

 横にいる恵那が振り向いて、歩きながら俊介を見詰めた。夜の街の灯が、恵那の瞳のなかで星みたいに光っていた。

 手のひらのなかの携帯電話が、なんだか呼吸しているように感じた。

 人気のない夜の工業地帯は、ちょっとした異空間だった。奇怪なカタチをした工場が闇のなかで林立し、一見、無秩序に取り付けられた無数の黄色い灯りが、闇夜を淡いセピアに染め上げているのだ。

 ベンツは音もなく加速し、四海の背中をバックシートに押し付けていく。左右の風景がビュンビュンと後方へ飛んでいくと、四海の胸に沈殿している憂鬱も、少しずつ振り落とされていく気がした。

 遠く工場の敷地を囲う鉄柵の脇に、煌々と光る自販機を見つけた。ぽつんと道端に捨て置かれたようなその自販機に、わけもなく親近感を感じて、四海は車を止めた。

 セピアがかった奇妙な夜空を見上げた。

 細長い煙突たちが林立していて、セピアに濁った夜空に突き刺さっていた。煙突の先端からは煙が盛大に立ちのぼり、ほとんど真横に流されている。

 工場の煙が海風に霧散し、消えゆく様をぼうっと眺めながら、四海は三年前の「あの日」を憶(おも)った。五歳になったばかりの娘、葉月が、かさついた骨片と白い灰になった「あの日」だ。

 湿っぽすぎるため息は、いつものように飲み込んだ。

 玄関のなかに入る。廊下の突き当たりのガラス扉を見ると、まだリビングの灯りはついていた。
 靴を脱ぎながら、その灯りに向かって声をかける。
「ただいま」
 四文字の単語は、薄暗い廊下に吸い込まれて消えた。
 妻の由佳からの返事はない。

 ひとしきりしゃべり続けたら、無性に喉が渇いた。
 四海は「笑顔」をキープしたまま、いったん言葉を区切った。
 と、リビングに水を打ったような静謐(せいひつ)が満ちて、沈黙が苦手な四海はごくりと喉を鳴らした。

 由佳がパソコン画面から視界をあげ、四海を見た。
 帰宅してからはじめて、視線が触れあった。

「あ、ええと」
「なに?」
「いや……。トレーニングの後のビールは最高なんだよな」
「それだけ?」
「うん」
「じゃあ」
「うん、ありがとね。おやすみ」
 後ろ手にリビングのドアを閉める由佳の痩せた背中を見詰めたまま、四海はこの日最後のマシンガントークを放った。
 バタン。
 ドアが閉まると同時に、マシンガンの弾が切れた。
 ひとり取り残された四海の口から、短いため息が漏れる。「笑顔」のまま固まっていた頬の筋肉も、じわじわと緩んでいくようだった。

 四海はザラリとした違和感を覚えた。その違和感はみるみる胸のなかで膨れ上がり、四海の背中と両腕に鳥肌を立たせた。

 コチ、コチ、コチ……。
 壁掛け時計の秒針の音が響き渡っているのに、リビングのなかはむしろ時間が止まったように冷え込んだ。

 自分の心とはまったく別のところで汚(けが)らわしい言葉が発生して、それが勝手に自分の口からドロリとあふれ出ているような、そんな感覚を四海は覚えていた。

 明るかったはずの由佳の表情から、血の気が失せていくのが分かった。瞳の奥に優しく灯っていた、あの灯台の灯りさえもしぼんで消えてしまった。やがて焦点が曖昧になった由佳の両目から、ぽろりぽろりとしずくがこぼれはじめた。

 四海のなかにいる、もう一人の自分は、たしかに罪悪感に苛(さいな)まれていた。しかし同時に、意思とは無関係に、内側からあふれ出す黒い感情を抑え切れない自分もいたのだ。

 秋晴れのもと、紺碧の海を見下ろす高台には清々しい風が吹いていた。頭上には背の高い松の枝が張り出していて、さらさらと心地よい葉擦れの音を奏でている。

 そのぬくもりが、沈んでいた記憶の底からゆらゆらと浮上してきて、思わずその絵本を抱きしめたい衝動にかられた。

 いったん甦ったように見えた由佳の心は、墓参りから帰宅したとたんに、くたくたと花がしおれていくように閉じてしまったのだ。

 地下鉄のターミナル駅の階段を上り、地上に出ると、末次庄三郎は濁ったねずみ色の空を見上げた。

 時代めいた木製のドアを押し開けると、コロン、という甘いカウベルの音が店内に響く。コーヒーの馥郁(ふくいく)とした香りに包まれながら、末次は「やれやれ」とこぼした。

 彼らの顔を思い浮かべたとたん、末次は魂まで吐き出してしまいそうなほどの深いため息をついたのだ。

 マスターはくすっと笑ってこめかみを人さし指でポリポリと掻いた。

 そして、機械よりも冷たい台詞がポツリと放たれたのだ。
「それ、セクハラですか?」

 末次は、ついさっき感じたキラキラした想いを、まるごと泥で上塗りされたような気分になって、無愛想な顔のまま観葉植物の葉陰から出ていった。

 末次ひとりが暮らすにはどうにも広すぎたし、そして静寂が重すぎたのだ。

 古ぼけたビルの外に出ると、秋の艶(なまめ)かしい風がふわりと流れてきて、権田の丸太のような襟元を撫でた。

 今日の夜風には、かすかにキンモクセイの香りが溶けていた。

 その声は、まるでエコーでもかかったかのように、繰り返しわんわんと響きながら権田に押し迫ってきた。

 根深く染み付いた不安が、黒いエネルギーの核となって、権田の思考をネガティブな方向へと引きずり込んでいく。

 スナックひばりのある裏路地は、銀色の雨の糸に淡く霞んでいて、なんだか夢のなかのように穏やかに見えた。

 権田がようやくまどろみはじめた頃には、もう、窓の外はレモン色の朝日で満たされていた。

 カオリちゃんがにっこり微笑むと、銀縁メガネの奥の目が細い三日月のようになった。

 優しそうな形をした目も、焦点が結ばず、瞳には光がなかった。

 チ、チ、チ、チ、チ……。
 秒針の音が、さっきよりも室内に降り積もっていた。

 少し土の匂いのする冬めいた風が吹いていた。街路樹の落ち葉がかさかさと音を立てて、二人の足元を転がりながらすり抜けていく。

 風はカオリちゃんの黒いツインテールをどこか淋しげに揺らした。