森沢明夫さんの水曜日の手紙の表現、描写
五月の緑風が、さらりと襟元を吹き抜けた。
無垢の木で作られた瀟洒(しょうしゃ)なカフェテラス席ーー。
豊かな香りのアールグレイが注がれた白いカップのなかで、木漏れ日がひらひらと揺れた。
「そうなんだぁ」
ため息みたいに言いながら、わたしはチクチクした疎外感に耐えていた。
わたしは胃のあたりに生じた黒い靄(もや)を吐き出すように口を開いた。
わたしの脳内のスクリーンに、あの頃の風景がゆっくりと像を結びはじめた。
伊織の声を聞いているうちに、記憶の回路がピタピタと音を立てて繋がっていく気がした。
後悔が胸のなかで一気に膨れ上がり、嫌な熱を持ちはじめた。
ここまで本心を口にしていたら、きっと涙が出てしまうだろうなーー、と思いながらしゃべっているのだけれど、実際、わたしの目は潤むことすらなかった。むしろ、みぞおちのあたりが空っぽになってしまったような、ぽかんとした感覚を味わっていた。
こじれた空気のなか、わたしたちはそれぞれ冷めきった紅茶を啜った。そして、視線を泳がせながら、次の台詞を探していた。
すれ違いざま、その犬に「キャン」と吠えられた。
わたしは舌打ちして、「最悪」と、おばあさんの耳に届くほどの声を出していた。
「ご、ごめんなさい」
おばあさんの声を背中ではじき返したとき、わたしは駆け出していた。
わたしは大きなレジ袋を両手にぶら下げて住宅街を歩いた。とぼとぼと、土のように重たい身体を引きずって。
夫のフォローは、わたしの喉の奥に溜まっていたため息のもとを霧散させてくれた。
わたし、どんだけ毒にまみれた人生を過ごしているんだろう?
考えたら、心が石のように冷たくなっていた。
古びた廊下の軋む音がした。リビングのドアが開き、だるそうな顔をした夫が入ってくる。後頭部のひどい寝癖がアンテナみたいに上を向いているのがおかしい。
絵筆一本で人生を成立させようと踏ん張っている元同期の背中は、弓のようにピンと伸びていて、ぼくの目には悲しいくらいまぶしく映るのだった。
背後の磯からは、ざん、ざん、と岩に砕ける波の音が聞こえてくる。海風が吹くと足元の草むらが楽しげに揺れ、そして、相変わらず青空から鳶の歌が降ってくる。
さりげなく深呼吸した。肺を洗うような海風の清々しさに、どこか救われる思いがした。
ぼくはロックのバーボンをゴクリと音を立てて飲んだ。
摂氏零度に近い液体が喉をキュッと冷やし、すぐにそれが焼けるようなアルコールの熱さに変わる。
なるほど「孤食」とはよく言ったものだ。
里穂を東京に出したら、毎晩、自分はこんな気分で食事をとることになるのかーー。
私はスプーンを置いて、立ち上がった。
そして、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、缶のままごくごくと喉を鳴らした。
「ぷはぁ」
と出した声が、高い天井に吸い込まれて消えた。
小さな窓からはレモン色の朝日が差し込んでいて、その光をよく見ると、無数の埃がきらきらと舞っているのが分かる。
マスクの下から「はい」というくぐもった声がいくつか聞こえてきた。
わたしのなかに君臨していた伊織の優雅な笑顔ーー、それが、表面からパリパリと音を立てて剥がれ落ちていく。
「夜中からずっと胃がしくしく痛くてさーー、悪いけど、朝食、おかゆにしてくれる?」
寝癖で後頭部の髪の毛をアンテナみたいに立てた夫が、パジャマの上からお腹をさすりつつそう言った。