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人生も後半戦

人生も後半戦になったら、これまでの生き方に後悔することもあります。しかし、後悔しても仕方ない。この先楽しく生きるためにいろんなことに挑戦

三日月に「ありがと」

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 漫才ブームが巻きおこり、任天堂の携帯テレビゲーム、ゲームウォッチが発売された昭和五十年代後半、日本の車の生産台数が世界一になった。
『赤信号、みんなで渡ればこわくない』こんな台詞が生まれた時代だった。
 将来に不安を感じることを知らない楽しい時代だったのかもしれない。バブル経済になる少し前の時代だ。

 そんな時代に、私、中嶋茂雄は不思議な体験をした。それは少し奇妙で恐ろしい? いや、私を助けてくれた幸運な出来事だったのかもしれない。
 この不思議な体験を今ここで記そうと思ったのは、その体験から四十年近く経った今、それを思い出すある出来事が起こったからだ。


 今から四十年近く前、私は京都の大学に入学し親元を離れ下宿することになった。
 この時の私は、大学に入学するという目標を達成したことで義務を果たし、後は好き勝手にしてもよいと勘違いしていたのかもしれない。
 将来への不安はなかったが、私には未来への夢や希望も持ち合わせていなかったのだ。
 大学に入学してから、学業そっちのけで自由で気ままな生活を過ごしていた。
 一人暮らしを始めた私は、はじめてアルバイトをしてお金を稼いだ。そのお金でパチンコをし、アルコールや女性もおぼえた。車の免許を取り、知り合いからエンストを繰り返すトヨタのセリカ1600GTを五万円でゆずってもらった。その車でドライブするのが楽しかった。車をとばしていると嫌なことを忘れられた。
 今思えば、無駄に過ごした一年間、もったいない、そして親不孝なことをしてしまったな、と後悔している。両親は将来立派になってもらいたいと、そして学業を頑張ってほしいと、学費や一人暮らしするための生活費を稼いでくれていたと思うと、胸が締め付けられる。
 こんないい加減だった私が、今幸せに暮らせているのは、もしかしたら、あの不思議な体験のおかげかもしれない。

 ふざけた大学生活をする私を大学は許してくれるはずもなく、留年が決まってしまった。出席日数も少なく遊び呆けた一年間。留年しても仕方ない成績だったのに、留年とわかった途端に落ち込んだ。親になんと言い訳すればいいのだろうか。
 三つ上の兄の信一は、私の通う大学よりもはるかに偏差値の高い理系の大学を留年することなく、今年卒業を決め、就職先も希望していた大手の薬品メーカーに決まっていた。兄はその会社で商品開発をし困っている人の役に立ちたいと張り切っていると母親から聞いた。その時の母親の声は弾んでいた。自慢の息子なんだろう。
 子供の頃から学業もスポーツも遊びも、何をやっても兄は私より優秀だった。
 両親は私と兄を比べることなく分け隔てなく愛情を注いでくれていたが、私の心の奥底には兄に対する劣等感がずっと沼底に沈む泥のように潜んでいた。その泥のような劣等感が歳をとるごとに積もり水面に顔を出してきた。
 小学生低学年の頃、兄は私にいろんなことを教えてくれた。小学生になっても逆上がりが出来なかった私を近くの公園で特訓してくれたり、自転車の補助輪をはずす勇気のない私に、乗れるようになるまで自転車の荷台をささえてくれたりした。そんな兄が大好きだったが、兄より出来ない自分が情けなくなり、思春期になると兄と顔を合わせたくないと思うようになった。留年が決まった時もそんな気分になっていた。
 希望通りの会社に就職が決まり、大学卒業を決めた祝福ムードの家庭に私の留年で水をさしてしまう後ろめたさがあった。
 春休みに私が実家に帰って兄と食卓を並べた時、両親はどんな顔をするのだろうか? 兄に「よく頑張ったね、おめでとう」と声をかけづらいのではないだろうか。いっそのこと、私を出来の悪い次男として罵ってくれた方が楽かもしれない。けど、両親はそんなことはしない。
 私のせいで兄の卒業と就職を手放しで喜べなくなってしまっただろう。
 私は春休みに実家に帰ることをあきらめて一人下宿先で過ごすことにした。
 その後、兄と兄弟らしい会話をした記憶がない。仲が悪くなったわけではないが、他人行儀な付き合いになってしまった。

 掲示板に貼り出された留年の通知を見て呆然と立ち尽くした。しかし、この場にいて誰かに会うのも気まずいので、校内をウロウロと意味なく歩いた。下宿に帰る気になれなかった。気晴らしにパチンコでも行こうかとも思ったが、持ち合わせがない。学食でカレーパンとコーヒーを買って、外のベンチで一人カレーパンをかじった。食欲もないし、これで充分だった。カレーパンを食べてからタバコに火を点けた。モヤモヤとした紫煙が消えていくのをぼんやりと眺めていた。
「おー、なかじま」
 落ち込んでいる時、こんな時は同じ思いをしている者が集まってくる。私と同じく留年が決まった川田が私のところにやってきた。
「あー、川田か。どうした」声が掠れた。
「さすがに留年決まって元気ないな」川田も留年が決まっているのに、はつらつとした太陽のような声だ。
「川田、お前も落ちたんだろ」
「へへへ、まあな。でも、落ちたって言うなよ。落ちたんじゃなく、留年、留まるだけだから」川田は無理に明るく振る舞っているのだろうか、太陽の笑みのまま親指を立てた。
「なんで、そんなに明るいんだよ」川田の明るさに少し気持ちがささくれた。
「俺たち勉強しなかったんだから仕方ないだろ。だからもう一度同じ所に留まらせてくれたんだ。それに……」
 川田が私の横に腰掛けて、タバコを咥えポケットからジッポーのライターを取りだし火を点けた。
「それに? なに」
「まっ、俺もお前も自業自得だしな」紫煙を吐きながらそう言って笑った。
 確かに、この一年間、川田と二人で遊び呆けた。川田と私は出身地が近いということもあり、入学してすぐに仲良くなった。大学生活と慣れない一人暮らしも川田と過ごしていると不安や寂しさより楽しさの方が勝っていた。この一年、二人ではじめての経験をたくさんした。大学一年目で私が学んだことは、それらだけだったのかもしれない。
「これから二人で、俺の下宿でやけ酒でもするか」川田はタバコを持った右手でグラスを口に傾けるような仕草をした。
「そうだな」
「よーし、決まりだ。夕方に待ってるわ」タバコをベンチの前に立つ吸い殻入れに押しつけた。
「わかった。一旦下宿に帰ってから、お前の下宿に行くわ」座ったままグゥーッと思いきり伸びをした。「そう、自業自得だ」と心の中で呟いて、落ち込む気持ちを追い出した。
「じゃあ、また後でな」川田は立ち上がり踵を返して立ち去ろうとした。
「かわた」私は川田の背中に声を掛けた。
「なに?」
「あ、いや……、声掛けてくれて、ありがとな」
 川田はニヤリと笑って「おー」と右手の親指を立てた。
 私は一旦自分の下宿に帰った。四畳半一間の部屋に一人でいるのは耐えられない。川田の誘いは有りがたかった。もし、川田が誘ってくれなかったら、私は、今日この後どう過ごしたのだろうか。カバンを床に置いて、それを枕にし、飴色になったひんやりする畳の上で大の字になって目を閉じた。すーっと意識が遠くなりいつの間にか眠ってしまった。
 子供の頃、公園で兄と遊んでいる夢を見た。兄に自転車の特訓を受けている夢だった。
「しげお、だいぶ上達してきたぞ」
「兄ちゃんのおかげ。いつもありがと」
「しげお、もうちょっとだぁ。今からぁ、手ぇー、離すぞぉー」兄の声が後頭部から聞こえてくる。エコーがかかったような声で山びこのように遠くから響いているようだった。「兄ちゃんこわいから、離さないでー」そう言って振り返ろうとした。みかん色の地面に自転車に乗る私の影が長く伸びていた。後ろで荷台をささえてくれているはずの兄の影はなかった。
「にいちゃーん」と叫んだ。
 私の叫び声と同時に「しげおー」と母親の声が聞こえた。そこで目が覚めた。
 目を開けると、薄暗い部屋がすでに真っ暗になっていた。
「夢かぁー」暗い天井をぼんやりと眺めた。
 重たい体を起こし真っ暗のなか蛍光灯の紐をさぐって引っ張った。パチパチ、パチッとじれったく灯りが点いた。ヤニだらけの蛍光灯だが眩しかった。少し寝すぎてしまったようだ。風呂屋に行くつもりだったが時間がなくなってしまった。川田が待ってるなと、急いで部屋を出て、愛車のセリカに乗りこんだ。

 車を川田の下宿の近くの自販機の横に停めて、その自販機で缶ビールを買った。自販機の受け口から缶ビールを取りだしバッグに詰め込んでいたら首筋から背中に冷たいものを感じた。首筋を触ると濡れていたので、雨かなと空を見上げたが、三日月が笑っていた。
「何なんだよ」そう呟いて、濡れた手の臭いを嗅いでからズボンに擦り付けて濡れた手を拭いた。
 そこから歩いて川田の下宿へと向かう。すぐの角を曲がって二十メートル位歩いたところにある二階建てのアパートのような建物が川田の下宿先『やまと荘』だ。二階の五部屋ある左から二番目が川田の部屋だ。階段を上がってすぐの部屋は共同トイレとキッチンで、その隣が川田の部屋だ。その奥の部屋に、私たちの大学より偏差値の高い大学に通う気難しそうな三回生が住んでいる。外付けの少し錆びた階段を上がっていった。ドン、ダン、ドンと鈍い音が響く。風は冷たく濡れた首筋を冷やした。三日月が階段の手すりの影を階段にくっきりと落としていた。川田の部屋の前まで来てドアをノックすると「おせえな」と昼間の声とは違う少し不機嫌な声が聞こえた。
「ごめん」と言ってドアをゆっくり開けて中に入った。暖かい空気が顔を包んだ。
 川田の部屋は六畳一間で、左奥にジーンズ柄のビニールの衣装入れがあり、二段しかない食器棚、正方形の小さな冷蔵庫、テレビが乗っかった木製棚の順に並んでいる。テレビから川田のお気に入りのアイドルの歌声が流れていた。中央に折りたたみの小さなテーブルがぽつんとある。右奥の押し入れの前で電気ストーブがこの部屋の主のように赤い光を放っていた。狭い部屋だが、私の四畳半の部屋よりはましだった。
 部屋にあがって買ってきた缶ビールを二缶テーブルに置いて、残りを冷蔵庫に入れた。おつまみは川田が用意してくれていた。柿の種、ポテチ、さきいか、缶詰、チョコレートがテーブルの上に無造作に置いてあった。
「おつまみ、たくさん用意してくれて、ありがとな」
「中嶋、早く乾杯しようぜ」川田が缶ビールをあけて持ち上げた。何に乾杯なのか、まさか留年に乾杯するわけはない。
「おっ、おう、乾杯」まぁ、何でもいい、二人に乾杯だ。
 川田はグイグイと一気に飲んで口元をぬぐった。
「やっぱ、うまいな。フゥ、プファー」
「うん、うまい」私は半分ほど飲んで缶をテーブルに置いた。酒に弱い私はそれだけで顔が熱くなっていた。
 川田は二缶目のビールを冷蔵庫から取り出して、ジッポーでタバコに火をつけた。つられて私もタバコに火をつけた。あっという間に部屋中がモヤモヤと煙った。まだ未成年だが、アルコールもタバコもこの一年で覚えた。私は残り半分のビールを飲みながら柿の種の封を開けてつまんだ。
「こないだ、いきなりフィーバーかかってな、ラッキーだったわ。最近絶好調よ」川田がいきなりパチンコの成果自慢を始め私も負けじと自慢した。負けている方が多いことはわかっているのだが、負けた記憶はいつの間にかどこかへ飛ばしてしまい、勝った時だけの記憶を頭に残した。その後は、誰それが可愛いやら、早く彼女がほしいやら、MAZDAのRX-7に乗ってみたいやら、フェアレディZがかっこいいやらと女子や車の話題で盛り上がっていった。この一年間、この部屋でいつも話した話題ばかりだった。留年したこと、大学のことには、お互い触れなかった。話している間、それがずっと心の片隅に異物のように引っかかっていて、酔いが回るにつれて異物は膨らんでいった。絶望と不安、そして劣等感がドンドンと大きくなった。
 アルコールが回ったせいか体が鉛のように重たくなり、まぶたを開けておくのもつらくなってきた。
 川田はまたパチンコの話題を始めた。新しい機種の攻略法を説明し始めた。
「かわたぁー」私は川田が続けるパチンコ自慢を遮るように叫んだ。
「シーッ」川田が人差し指を口に当て眉間に皺をよせ、気難しい三回生の部屋の方を指さした。そんなに大きな声だったのだろうか。
 私も人差し指を口にあててから、「ごめん」と右手を顔の前で立てた。
 川田は親指と人差し指で丸をつくりOKのサインを出した。
「たまに怒鳴りこんでくるからな」川田が隣の部屋を指差しながらヒソヒソと話した。
「でも」
「なに?」
「俺たち、このままで大学大丈夫かな」
「あっ、あー」川田は俯いて、口を開かなくなった。無言のままビールを一気に飲んで、冷蔵庫に入ってるビールをすべて出してきた。
「今日は、飲もう」川田が私の前に缶ビールをずらりと並べた。充血して潤んだ瞳はアルコールのせいなのだろうか、それとも川田も本当は後悔しているのだろうか。
 二人ともアルコールが強いわけでもないのに、大量のビールを飲んだせいだろう、顔や目が真っ赤になり、頭がぼんやりとしてしまっていた。
 会話は途切れ気味になり、床に散らかる雑誌に手を伸ばしながら時間が過ぎていった。
「ちょっと、トイレ」川田はそう言って立ち上がった。部屋を出る川田の後姿が萎んで見えた。川田のサンダルの擦って歩く音が聞こえてくる。ドアを開ける軋むような音が部屋まで聞こえてきた。
「フゥー」私はそのまま横になり背を伸ばした。目を閉じると意識がスーッと深い闇に落ちていくようだった。
「バターン」という音で落ちかけた意識は戻ってきた。川田がトイレのドアを閉めた音だ。
「オゥエー、ウー、ウェー」という苦い声が漏れてきた。隣の三回生が気になった。苦い声が消えて静寂が続いた。しばらく時間が止まったようだった。隣の部屋からラジオの音がもれていた。トイレから水の流れる音がして時間が動き出した。ドアの軋む音がして、サンダルの音が近付いてきてドアが開いた。川田が胸をさすりながら入ってきた。
「あー、スッキリした~」
「もどしたのか」私は重たい体を起こして訊いた。
「へへへ、まぁな」
「フン、飲み過ぎだ」
 少し沈黙があってから、
「フゥー」「ハァー」二人揃ってため息をついた。
「疲れたな」タバコに火をつけた。紫煙が狭い部屋をまた白くする。川田もタバコに火をつけた。部屋が一段と白くなっていった。
「気分転換しようか」私は外に出たかった。だいぶ酔っていたが車で走りたくなった。
「気分転換?」
「今からドライブだ」
「大丈夫かよ。だいぶ酔っぱらってるぞ」
「大丈夫、車をぶっ飛ばしたい気分だ。何もかもぶっ飛ばしたい」
「事故するぞ、やめとけ」普段無茶する川田がまともで私の方がおかしくなっていた。
「いや、絶対行く」
「やめとけ、フラフラじゃないか」
「いーや、俺は一人でも行く」
 私は立ち上がり出ていこうとした。
「やめとけ」
「いーや、行く。じゃあな」
「ダメだ。一人は危ない」川田の声はそこそこ大きかった。私が人差し指を口にあてた。
「仕方ない、付き合うよ」
 川田はそう言って立ち上がり伸びをした。
「ごめんな川田、ありがとな」
 私と川田は外に出た。冷たい風が頬を撫で酔いをさましてくれる。大丈夫だ、意識はしっかりしてる。一時間くらい走れば気分が晴れる、私はそう思っていた。が、階段を下りようとした時、踏み外し転げ落ちそうになった。間一髪、冷たい手すりに掴まり、すぐに川田が脇を抱えてくれて難を逃れた。
「やっぱり、やめとけ。ほんと事故るぞ」川田が私の体を抱えながら叫んだ。
「ごめんな、ありがと」フーッと体の力が抜けていった。
 ギィー、隣の部屋のドアが開いて気難しい三回生が顔を覗かせた。銀縁眼鏡の奥に光る糸のような目で私たちを睨んできた。目が合ったので、私がペコリと頭を下げたら、「チェッ」と舌打ちしてドアを勢いよくバターンと閉めた。
「ふん、何だよ」川田が閉まったドアを睨み付けた。
「行こ」手すりに掴まりながら階段を下りていった。
「あ、あー、でも、ほんと大丈夫かよ」
「大丈夫、心配すんな」
 階段をおりて街灯の少ない路地を二人並んで歩いた。
 少し広い道に出て角を右に曲がる。そこから少し歩いた所に車を停めている。角を曲がったら真正面にピカピカの三日月が見えた。きれいな三日月を見て夜空が笑っているように見えた。それを眺めながらゆっくり歩を進めていると違和感を感じた。隣にいたはずの川田の姿がなかった。
「えっ」と声をあげ振り返った。すると川田は曲がってきた角の所で立ち止まっていた。
「かわた」私が呼んでも反応がない。川田の視線は私を通り越していた。目を大きく見開いて口を半開きにし、何か言葉を発しようとしていた。
「かわた?」目を凝らして川田を見ると、口元がガクガクと震えていた。
「どうした?」
「う、うしろ」川田は右手をゆっくりと上げて私の後方を指さした。
「なに?」
「う、うしろ、み、みろ」と震えた弱々しい声で言って、私に視線を向けた。川田が生唾をゴクリと飲み込んだ。
「うしろ? うしろがどうしたんだ」そう言って、川田から視線を外し、後ろを見た。
 自販機の灯りが切れかけて、チカー、チカ、チーカ、チカと不規則な点滅を繰り返していた。自販機が危険を知らせる信号を送っているように見えた。その信号が、チカチカ、チカチカとスピードをはやめた。
 ふと、視界の端に人影が入った。冷たい風がスーッと頬を撫で、冷たい空気の塊が顔にぶつかった。
 もう一度川田の方に振り返った。川田は、まだ目を見開いて口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くしていた。私は自販機の方に視線を戻してから、自販機の向かい側にゆっくりと、恐る恐る視線をやった。
 そこには電柱がある。それをチカチカと自販機の灯りが照らしていた。そして、視線を少し右にずらしてみると、そこに人が立っていた。目をこすってから凝らして、もう一度見た。体を丸め少し俯いた人が自販機の灯りに照らされていた。私が視線をやるとゆっくりと顔をあげ私を見た。真っ白な髪の毛で真っ白な顔をしていた。服装も白装束のように真っ白だった。それは生気を感じさせない老婆だったが、目と唇は生き生きとしていた。その目で私をじっと見つめていた。自販機の灯りでチカチカと光る黒い瞳、三日月のような目で笑っているように見えた。唇は紅をさしたように紅く三日月のように口角を上げていた。私に何かを訴えかけているような目と唇だった。それを見て一瞬、懐かしさのようなものを感じたが、すぐに恐怖心の方が勝った。
 私は金縛りにでもあったかのように体を動かすことが出来なかった。しばらく老婆と目を合わせていた。呼吸が荒くなり、息苦しくなってきた。だんだんと意識が遠くなっていった。
「なかじまぁー」川田の声が耳に入り意識が戻った。「早く逃げろー」
 川田に振り向き頷いてから、もう一度老婆を見た。まだ私を見ている。私は老婆の方に体を向けたまま目をそらさずに、ゆっくりと後ずさりした。ニ歩、三歩下がったところで川田の方に体を向けて曲がり角まで早足で逃げた。曲がり角に立つ川田のところまで行って川田と目を合わせ、揃って息をのみ込んでから頷いた。そのままダッシュで『やまと壮』まで走った。足の遅い私は川田の背中を必死で追いかけた。後ろを振り返る勇気はなかった。『やまと壮』の階段を二段飛ばしで駆け上がった。ダン、ドーン、ダン、ドンという音が暗闇に響いた。三回生を気にする余裕など微塵もなかった。三回生がドアを開けて銀縁眼鏡の細い目を私たちに向けてきたが、私たちの形相に驚いたのか、細い目を大きく見開き「ぐぅわ」とわけのわからない音を発して、すぐにドアを閉めた。
 部屋に戻ってから、私たちはしばらく無言だった。息があがっていて、お互いの荒い息の音だけが部屋に響いた。
「何だったんだ?」川田が先に口を開いた。
「……」私は首を横に振った。
「顔見たのか?」
「うん、ずっと見られてた」
 しばらくその場に立ち尽くしていた。
「喉が乾いたな」
「うん」
「けど、飲み物なんもないわ」川田が冷蔵庫のドアをあけた。
「仕方ないな」
「キッチンで水でも入れてくるわ」
「あ、あー、ありがと」
「やっぱ、いっしょに行こうぜ」
「うん、そうだな。一人になるの怖いしな」
 二人で共同キッチンに行って、水道水を蛇口に口をあてゴクゴクと飲んだ。
「うまい」口元から水が滴り落ちた。
「はぁー、生き返ったー」

 ドライブは中止にした。いろいろとモヤモヤした黒いものを車をとばして吹っ飛ばそうと思っていたが、老婆の顔が頭から離れずにモヤモヤした黒いものは知らない間に霧が晴れるように消えていた。
「泊まっていけよ、このまま一緒に寝ようぜ」
「ありがと、そうさせてもらうよ。早く外が明るくなってほしいよ」
 テーブルを端に寄せて、私たちは並んで横になった。私は老婆の顔が頭から離れず、あまり眠れなかった。知らぬ間に外は明るくなっていた。川田は一晩中「ウー、ウー」と苦しそうに唸っていた。
 天井を見ると天井の木目の節が人の目のように見えて、老婆の目を思い出させた。ぎゅっと目を瞑り、大きく息を吐いた。
「もう、明るいから大丈夫だろう」そう呟いた。

 その後の大学生活は、私も川田も遊びは忘れなかったが、学業も頑張った。落ちること、いや、留まることなく卒業できた。
 あれ以来、あの老婆に会うことはなかったが、夢には何度も出てきた。夢に出てくる日は、老婆を見たあの日のように私の心にモヤモヤした黒いものがある日だった。彼女に嫉妬して喧嘩した日、仕事で理不尽な扱いを受けて辞めたいと思った日、娘や息子が遊び呆けているのに苛立った日、妻と些細なことで喧嘩した日。その度に老婆が夢に出てきた。老婆に見つめられた私は夢のなかで背筋を伸ばした。そして目を覚ました時には心の黒いものは無くなり気持ちがリセットされていた。老婆は恐ろしかったけれど、老婆が夢に出てきたあとは、何故か事態は好転していった。
 四十年前のあの日も老婆に会って良かったのかもしれない。もし、あのままドライブに行っていたら、川田が言ってたように私は事故を起こしていたかもしれない。


 長女の沙也佳は専門学校を出て就職し、職場で知り合った男性と婚約をした。毎日幸せそうな顔をしている。今日もご機嫌な顔で婚約者とディナーに行くと言っていた。父親として寂しく思うこともあるが娘の幸せな顔を見るとやはり嬉しい。
 それにひきかえ、長男の翔太は去年大学に入学したが、留年が決まってしまったようだ。私はそれを妻の美代子から聞かされた。会社から帰って着替えている時、美代子が私のところにやってきた。
「翔太、留年しちゃったって」美代子の眉はハの字になってため息を混ぜていた。
「なんで」
「なんでって言われても、よくわかんないけど。この一年アルバイトを頑張りすぎちゃったみたい」
 軽く話す美代子に少し苛立ち、自分のことを棚にあげて翔太に対して怒りがこみ上げてきた。
 翔太はラーメン屋のアルバイトに夢中になり学業をおろそかにしていたということだ。リビングに座る翔太に視線をやった。
 ソファに座り、くつろいでスマホをいじっている翔太の姿を見て頭に血がのぼっていくのがわかった。私はゆっくりとリビングへ向かい、翔太の座る真正面に立ち腕組みをした。翔太は私に気付いているはずだったが、顔を上げようとせず無視を決め込んでいた。
「翔太、お前をラーメン屋で遊ばせるために大学に行かせたわけじゃないからな。お前みたいなバカの学費を稼ぐために、こっちは必死で働いてるんだぞ。ラーメン屋で遊んでるだけなら、大学なんてさっさとやめてしまえ」
 私はソファに座る翔太の前に立ち大声で怒鳴った。
「別にラーメン屋で遊んでるわけじゃないよ」翔太はスマホに視線をやったまま小さな声で反論した。その後、詫びの言葉を口にすることなくスマホをいじり続けていた。美代子は眉を八の字にしてキッチンからこっちを見ていた。私は腕組みしたまま翔太の後頭部を睨み付けていた。ずっと沈黙が続き、私と翔太の間には木枯らしが吹いていた。
「ふぅー」と息を吐いた。振りあげた拳の下ろし所を失ってしまった。翔太が一言「ごめん」と謝ってくれれば、私は、「じゃあ、これから頑張れよ」と肩を叩いて済ますはずだっのに。カッとなって「お前みたいなバカ」とか「こっちは必死で働いてるんだぞ」とか「大学なんてやめてしまえ」とか言ってしまったのがまずかったのだろうか? いや、翔太の態度が悪いからだ、仕方がない。
 私が四十年前に留年した時、父親と母親は、私になんて声をかけてくれたのだったろうか。思い出せないが、今の私のような罵声を浴びせられた記憶はなかった。
 翔太が顔を上げた。睨むような目をしたので、私は又頭に血がのぼりカッとなった。
「今すぐ、出ていけ」
 ダメだ。拳をおろすどころか、一段と振り上げてしまった。
 美代子が慌てて翔太の隣に座り、翔太の肩を抱いた。
「翔太、お父さんに謝ろ。これから、勉強頑張るよねっ。お父さんも少し落ち着いて」ここで拳をおろすべきかと気持ちが左右に大きく揺れた。翔太が先に頭を下げてくれれば、この場は収めようと思った。握りしめていた拳を少し緩めた。
 その時、自宅の電話が鳴った。自宅の電話が鳴るのはめずらしい。
「俺が出る」私は、この場から逃れるように電話へ向かい、受話器をとった。
「もしもし、中嶋です」
「もしもし、茂雄さん? 夜分すいません。博美です」
「お義姉さん、どうしたんです?」義姉からの直接の電話に胸騒ぎがした。義姉と話すのは年に数回しかない。これまで電話で話した記憶はなかった。
「お義母さんが、いなくなったの」
「えっ」
「ごめんなさい。わたしがお風呂からあがってきたら姿が見えなくなったの」少し涙声のようだ。
「兄さんは?」
「それが、昨日から出張で……、ごめんなさい」受話器の向こうで頭を下げているのがわかった。
「おふくろの行き先に心当たりはありますか?」
「実は、最近、お義母さんの様子が変で、よく夜に徘徊することがあったんです。その度に主人が捜しに行ってました。いつも、公園で見つけてたみたいなんですが……」
 おふくろがそんな状態だったとは……、全く知らなかった。頭をハンマーで殴られた気分だった。
「わかりました。それなら今から僕が捜しに行きますので、お義姉さんは家で待機しておいてください」
「本当にごめんなさい」鼻をすするような音が漏れた。
「いえ、こちらこそ、いつもおふくろをみてくれて有り難うございます」
 翔太の留年の件は、一旦休戦することにした。
「美代子、ちょっと出掛ける」受話器を置いて美代子に向かって叫んだ。美代子は翔太の横に座り何か話していたようだ。
「どうしたの」美代子がこちらに顔を向けた。ハの字になっていた眉の間に深い皺が入った。
「おふくろがいなくなったらしい」
「えっ、……な、なんで?」
「うん、たぶん……、どこか徘徊してる。最近、ちょくちょくあったみたいだ」
 親父が昨年他界してからおふくろは一気に元気が無くなっていた。年齢も年齢だし、もしかしておふくろは……。それは今考えないことにした。
 自宅を出た。いつも公園にいると言っていた。多分、私と兄が小さい頃によく遊んだ公園だろう。
 子供の頃、その公園で兄と日が暮れるまで夢中で遊んだ。暗くなる前に帰るように言われていたけど、もう少しだけと思っているうちにオレンジ色だった空は色を失っていた。その度におふくろが心配して迎えにきてくれた。そんな幼い頃の日々を思い出しながら車をとばした。もしかすると、おふくろもその頃を思い出して徘徊しているのかもしれない。
 地元では一番大きな公園で、日曜日には小学生が野球している光景をよく目にした。私と兄も子供の頃、近所の野球チームに入りここで野球をした。兄は野球でも脚光を浴びていた。私はいつもベンチからその姿をみていた。兄の活躍を誇らしげに思っていた頃もあったが、学年が上がるにつれ、小学生ながら妬む気持ちが大きく膨らんでいった。膨らんだ妬みが破裂する前に私は野球をやらなくなった。
 公園の脇に車をとめて窓から公園内を見渡した。野球場のバックネットの下の板がはずれかけて風にパタパタと揺れていた。地面が白く光って見えた。レフトからライトへ、一塁ベンチ、三塁ベンチと視線を走らせたが人影はなかった。
 野球場の奥には、幼い子供が遊べるブランコ、滑り台、砂場、鉄棒などがある。そっちへと車をゆっくりと移動させた。滑り台が見えたところで車をとめた。滑り台は私たちが遊んでいた頃に比べ、一回り小さくなり色鮮やかになっていた。三日月がそれを照らし地面にくっきりと影を落としていた。
 滑り台から鉄棒、ブランコへと視線を移動させていくとブランコに座る人影を発見した。おふくろだと思った。車からおりてブランコの方へと歩き出した。キーコ、キーコと寂しげな音をたてブランコが少し揺れていた。そこに座っているのは、おふくろようだった。肩をすぼめ俯く姿を見て小さくなったなと思った。髪の毛は真っ白になっていた。
 私はブランコの方へとゆっくりと歩いていった。私の気配に気付くことなく俯いたまま、キーコ、キーコとブランコを揺らし続けていた。ブランコに座るおふくろの前に立ったが、私に気付かない様子で俯いたまま、キーコ、キーコとブランコを揺らしている。
「フゥー」と息を吐いてから声を掛けた。
「おふくろ」おふくろの前で屈んで顔を覗き込んだ。
 おふくろがゆっくりと顔をあげた。白髪の下から顔が見えた。おでこには深い皺があり、頬もたるんでいた。正月に見た時よりだいぶ老け込んでいるので胸が痛んだ。顔は全体に白く生気がなかったが、目は三日月のように黒くキラキラと輝き、唇は三日月のような形をして笑って見えた。
「えっ、お、おふくろ?」
 私は目を見開いて生唾を飲んだ。
「あー、茂雄かぁ?」
 間違いない、この目、この顔は、もしかして……。そうだ、あの時に見た老婆と同じ目、同じ顔だ。そしてあれから何度も夢に出てきたあの老婆だ。私は腰を抜かすようにしりもちをついた。
 おふくろはブランコから立ち上がって私の顔を見下ろした。
「やっぱり、茂雄だぁ」私に顔を近付けてきた。
「あっ、あー、おふくろ、こんなとこで何したんだ」
「ここで、あんたと信一のことや孫のことを考えてたんやぁ」
「そ、そうか」私は何とか立ち上がることができて、尻の砂をはたいた。
「茂雄、大丈夫かぁ」
「あっ、あー。だ、大丈夫だ」
「そうかぁ、それなら良かった」
「それより、こんな夜遅くに勝手に出掛けたら、みんな心配するだろ」
「何、偉そうに言ってるぅ。こっちが、あんたらの心配してるんだぁ」
「ここで、俺たちのこと心配してくれてたのか?」
 おふくろはコクリと頷いた。
「茂雄、あんまり、無理するなぁ。終わったことを悩んでも腹が立ってもなぁ、仕方ないぞぉ」
「あっ、あー、わかった」
「茂雄は小さいころから、すぐにカッとなったり、落ち込んだり、なげやりになったりするから心配なんだぁ」
「ごめんよ、でも俺は兄ちゃんみたいに出来が良くなかったから、たぶん、そのせいで、落ち込んだり虚勢をはったりしてんだ」
「茂雄は、茂雄で立派だぁ。人と比べて落ち込むなぁ」
「そうかなぁ? けど、おふくろだって、俺が兄ちゃんみたいに出来が良かったらなって思ったことあっただろ」
「信一は、父さんとわたしの子供とは思えんほど、勉強もスポーツもよく出来た子だったなぁ。すごい努力家だったしなぁ」
「そうだよ。俺は兄ちゃんと比べられるのが怖かったよ。それが怖くて怖くて仕方なかった」
「怖がることないよ。茂雄には茂雄のすごく良いところがあるんだから」
「俺に良いところなんてないよ」
「いいや、あるよぉ」
「どこだよ?」
 おふくろはブランコに座り、またキーコ、キーコと揺らしはじめた。
「……」
「ほら、俺の良いところなんてこたえられないじゃないか」
 キーコ、キーコとブランコが揺れている。おふくろが空を見上げた。
「茂雄の良いところはなぁ」
「無いよ」
「わたしも父さんもあんたの『ありがと』っていう言葉がすごく好きだった。あんたは人に感謝する気持ちをたくさん持ってた。信一もあんたに『ありがと』って言われるのをすごく喜んでた」
「兄ちゃんが?」
「そう、信一はこんなこと言ってた」
『茂男は僕が鉄棒や野球を教えたら、絶対にありがとって言うんだ。それも嬉しそうな顔して言うんだ。それで僕はすごく嬉しくなる。茂男のおかげで人のために何かする喜びを教わったよ』
「俺、そんなにありがとって言ってたのかなぁ」
「よう言ってたなぁ。小さい頃は特にな。それも嬉しそうな顔して言うんだ」おふくろは三日月の目を細めた。
「おふくろ、ありがと。何か元気が出た」
「ほら、また、ありがとって言った」おふくろが笑った。
「そうだな」私も自然と笑顔になった。
「じゃあ、これから心配かけんなよぉ」
「翔太が留年しちゃって、さっき怒ってたんだ」
「まぁ、仕方ないな。翔太も父さんとわたしの血ひいてるからなぁ。ハハハ」
「ハハ、たぶん俺の血だよ」
「まぁ、翔太もこれからだよ。長嶋さんもデビュー戦は三振ばっかりだったしなぁ」
 『長嶋茂雄』私と一字違いの昭和のスーパースターだ。彼のデビュー戦は四打席四三振だったそうだ。
 そして、今、思い出した。私が留年を報告するために実家へ電話した時のことを。
 電話には父親が出た。父親に留年したことを伝え、春休みは帰らないと言った。その時、巨人ファンの父親はこう言ったのだ。
『そうか、そうか。長嶋茂雄でもデビュー戦は三振ばっかりだったからな』
 それだけしか言わなかった。怒ることも、貶すことも、励ますことも、慰めることもなかった。けど、何となく伝わった。
 父親はまだまだやり直せるから落ち込むなと言ってくれたのだと。
「そう言えば、父ちゃんも俺が留年した時、同じようなこと言ってたよ」
「あんまり、翔太を責めんなよぉ」
「わかった。それより早く帰ろ。お義姉さん、心配してるよ」
「あ、あー、そうだな。博美さんに悪いことしちゃったなぁ」
「そうだよ。電話の声、涙声だったぞ」
「博美さんにもいっぱい感謝しないとなぁ」
「本当だな」
「おふくろ、ずっと俺を見守ってくれてありがとな」
「親だからなぁ」
「俺も、翔太をしっかり見守ってやるわ」
「けどもなぁ、見守るだけじゃなく、翔太と話してみるのもいいと思うけどなぁ。父さんも母さんもそういうのが下手くそだったからなぁ。そのせいで、あんたを悩ませたのかもしれんなぁ」
 おふくろの三日月の目が遠くを見つめていた。
「そうだな。父親として、それと留年の経験者として翔太と話してみるよ」

 帰ってから、翔太と話をした。翔太は大学に入学してから、ラーメン屋でアルバイトをしていたのだが、そこの店長をリスペクトしてしまったようだ。
 大学に入学したが、卒業してからやりたいこともなく、特に何を学びたいといった目標もなかったそうだ。大学生活を過ごしていることに空しさを感じはじめた時、ラーメン屋の店長の若いころの話を聞いたそうだ。
 ラーメン屋の店長は、二十歳の頃、自分で店を持つという夢を持ち修業していたと聞いて、翔太はショックを受けたと言っていた。
 自分もこのラーメン屋で修業して、店を持ちたい。自分のラーメンを食べてもらってお客さんの喜ぶ顔が見たいと思うようになり、一年間、学業そっちのけで、ラーメン屋でアルバイトに没頭し、休みの日はラーメンの食べ歩きをしていたようだ。
 私に相談したかったが、反対されるのがこわくて何も言えなかったそうだ。
 これからはゆっくりと相談にのってやろうと思う。
 そして、大学を続けるのかどうかも、私は翔太の決めた道なら、どの道でも応援すると約束をした。翔太の方が私よりもしっかりしていると思い安心した。
 話し合いが終わって、翔太の部屋を後にしようとした時、翔太が私を呼んだ。
「おとうさん」
「なんだ」私は振り返り返事をした。
「いや、おとうさん、ありがと」
 少し照れ臭そうな『ありがと』だった。これは私のほうが勝ってるなと思った。
「そんな、照れ臭そうなに言うなよ。それから母さんにも言ってあげてくれ。きっと喜ぶから」
「わかった。ほんとにありがと」

「おふくろ、翔太は、昔の俺なんかよりも将来のことしっかり考えてるわ。おふくろのおかげで気付くことができたよ。ありがと」
 その夜、夢に出てきた老婆にそう告げた。老婆はコクリと頷いて三日月の目と唇で笑っていた。