私は、第二の人生に向けて小説を読むだけでなく、書く方に挑戦しようと思っています。
しかし、語彙力が無く、うまく書けません。あっさりした味気のない文章になってしまいます。
プロの小説家の文章は物語に入り込み、眼前に映像が浮かぶような文章ばかりです。そんな小説家の文章を参考にするために残したものです。
私のように小説を書いてみようと思う人なら少し参考になるかもしれません。
クライマーズハイ 横山秀夫
悪ければ悪いなりの人生を甘受し、予測される日々を淡々と生きていけばいいと考えていた。そんな乾いた日常をあの事故が一変させた。父は蒸発したのだと酒臭い母の懐で聞かされた。蒸発という言葉がひどく恐ろしいものに感じられた。呑み込むことも消火することもできず、それは漠然とした不安として胸に巣食った。
二時を回ってなお空腹を覚えないのは、暑さと、霊園の出来事のせいだとばかり思っていたが、ことによると衝立山も原因の一つだったか。
「あんな奴と付き合わんほうがいいぞ」
追村が低い声で言った。目元で小さな癇癪玉を破裂させている。
心に火が点いていた。
それは大きな発火ではなかった。小さいが、しかし、導火線を走る火種のように強大な爆発の予兆を孕んでいた。
「悠木」
声に顔を向けた。粕谷局長がこちらに向かってくる。
嫌な予感がした。
午後八時から九時を過ぎるまでの間、悠木は喧騒の坩堝(るつぼ)の底にいた。頭上から事故に関する断片情報が雨あられのように降ってくる。四方八方から怒声が飛んでくる。打たれっぱなしのサンドバッグ状態の中で、しかし、継ぎ接ぎだらけの情報は一つの真実を伝え始めていた。
耳に受話器を戻すなり、佐山の強い声が鼓膜を叩いた。
《もういいでしょう。現場へ行かせて下さい》
悠木は返答に窮した。佐山は猟犬のごとく獲物を追いたがって前脚で土を掻いている。その首輪を辛くも押さえている。悠木の心境はそんなだった。
何も言わずに電話を切った。
デスクについた肘に振動を感じた。田沢の貧乏揺すり靴先が悠木のデスクの脚に触れていた。
六時に起こしてくれ。枕元の内線電話で不寝番の記者に頼むと、悠木は汗染みの広がったネクタイを首から引き抜き、片方の手で枕を首の下にあてがった。饐(す)えた臭いに包まれる。若い記者たちの体臭が、泊まり番を卒業して久しい悠木を郷愁と喪失感との狭間に誘い込む。
上司のメッキが剥がれるたび、悠木の心はささくれ立ったものだった。失望は大きく、それは後々まで尾を引いた。
悠木はふっと内臓が浮き上がるような快感を覚えた。この三人を相手に丸々意見を通せたのは初めてのことだった。
「ま、揉めずにうまくやってくれ」
薄ら笑いの張りついた粕谷の顔には、かつてない巨大航空機事故に直面したジャーナリストの緊張感はなかった。
「おはようございます」
明るい声とともに、湯呑み茶碗が差し出された。礼を言う間もなく、もう依田千鶴子はスカートの裾を翻していた。
「前橋支局の玉置のことだ」
「玉置がどうかしましたか」
「どんな記者だ?」
佐山は答えず、コーラの紙コップを口元で傾けた。デスクに現場は売らない。顔にはそう書いてある。裏を返せば、玉置は取り立てて褒めるべき部分のない記者だということだ。
元社長秘書、黒田美波はハーフを思わせる面立ちの蠱惑的(こわくてき)な女だった。
悠木は荒い息を吐き出し、その拍子に、膝の上で両拳を握っていたことに気づいた。局長室を出る前からそうしていたに違いなかった。開くと、手のひらに爪の赤い痕が幾つもついていた。
「野郎……!」
悠木が唸ると、これからが本題とばかりに遠野が尻を前にずらした。
日航機事故で一儲け企むよりはまし。
そう自分に言い聞かせて、悠木は廊下に硬い靴音を響かせた。
この場で明かしたい名前ではなかった。
「誰が来てるって?」
粕谷は、悠木と千鶴子を等分に見て言った。
淳が抑揚なく言った。目線は悠木の胸の辺りに向けられていた。
「榛名とか妙義とか、いろいろさ。気持ちいいぞ。空気はうまいし、高いところに登るとスカッとするしな」
手振りを交えて話していた。
淳の視線が宙を泳いだ。迷っているのではなく、想像の翼を広げている表情に見えた。
罪悪感と、ささやかな充足感とが交錯して気持ちは斑(まだら)だった。凛太郎を利用して淳の気を引いた。いや、凛太郎だって喜ぶ。きっと救われる。
「北関の人間として間違ったことはしていません」
車椅子が止まった。二つの眼球がゆっくりとこちらに向いた。
悠木はその濁った眼球を見据えた。屈する気はなかった。