人の心や行動の表現 森沢明夫作品 ヒカルの卵
私は小説を読むだけでなく書いてみたいと思うようになりました。超短編ですが書いてみました。
しかし、浅い表現しか出来なくて、面白いものが作れません。
プロの小説家の作品から学ぼうと思い、ここに残しています。
今回は森沢明夫さんの「ヒカルの卵」です。
森沢明夫さんの作品は表現が美しく優しいので大好きです。文字だけで、美しい映像が頭に浮かぶ表現力を参考にしたいです。
ヒカルの卵
俺は、どうだ、とばかりに口角泡を飛ばしたのだが、大吉は固まったままだった。これはまた、ずいぶんと驚いてくれたらしい。バスンッ!
玄関先で、肚(はら)に響くような音がした。
「ず、あ、う、う、うぅ」
背中をしたたか地球に打ち付けられた男の呻き声が、冷たい風と一緒に店内に入ってきた。もはや呼吸が出来ない状態になっているに違いない。
集落の「名物」として知られるこの爺さんの白い篷髪(ほうはつ)はまるで、実験に失敗して爆発した科学者の頭みたいだから、かなり遠くにいてもすぐに分かる。
ギョロリと飛び出しそうな目で、頭のてっぺんからつま先まで舐めるように観察されると、なんだか身がすくむ思いがする。
ぶっきらぼうな口調で失礼なことを言うと、柳生のジジィはぼくから視線を剥がして、よたよたと歩きだした。
本を持ってくればよかった、と小さな後悔をした。
「まかない飯」という「ぜいたく飯」をたらふくご馳走になったぼくは、膨張し切ったお腹に振動を与えないよう注意しつつ、メエ子を引いて帰途についた。
「あ、いや、ちょっくら待てよ……」
ムーさんは頬に人さし指をあてると、宙を見つめながら計算でもしているような顔をした。目がキラキラしていて、まるで夢見がちな子供みたいに見える。
一時間ほど経って、脳みそが酒精にひたひたになってくると、やたらと陽気になっていたわたしは、母屋の納戸から、埃をかぶった小中学校時代の卒業アルバムを引っ張り出してきた。
母以外には封印していた胸の奥の箱の鍵を開けたのだった。
わたしの感情は、いつの間にか干上がった田んぼみたいにひび割れていて、もう、恋愛を出来るような潤いは一滴も残されていなかったのだ。
わたしは椅子に座り、両手でコップをはさむように持つと、麦茶を少し口に含んだ。
「ふう、美味しい」
よく冷えていて、喉の奥から細胞が生き返るようだ。
いつもの二郎の変わらない。でも、仕事中などの、ふとしたときに見せる空っぽな表情は、やっぱり普通ではないのだ。
わたしの意図を察して、皺に埋もれた目で頷いてくれた。
この場でいきなり味見させるとは、なかなかたいした度胸ではないかーと、感心しつつも、私は心のたすきを締め直した。
ふいに精米機が止まって、厨房が静かになった。
静けさが耳を打つと、ツーリングをしたあの日、桜の樹々の向こうから風にのって漂ってきた遠い潮騒が、記憶の彼方から立ちのぼってくるようだった。
今日は久し振りにすっきりとした目覚めだった。
身体の芯に泥が詰まったような倦怠感もとれていたし、朝食もまずまず食べられた。
ふいに線香の煙がふわふわと漂って、いい香りがした。わたしの布団の枕元に置いてある目覚まし時計が、チ、チ、チ、と残りの人生を少しずつ切り落としていく。
笑いながら言って、わたしはこの子の母親でいられる幸せをそっと噛み締めていた。
いったん私は深呼吸した。森の清々しい香りが肺と心を洗ってくれて、少しは気分を落ち着かせられた。
ぼくは、少し潤んでしまった目に笑みをためて、心からペコリと頭を下げた。
その坂を登り切って、自宅の梅ノ木を回り込んだ刹那ー。
「えっ……」
まるで透明な壁にぶつかったみたいに、ぼくはピタリと足を止めた。そして、次の瞬間、弾かれたように、土間の入口に向かって駆け出していた。
母はひとり、ちゃきちゃきと仕事をこなす。わたしも、空いた皿を下げたり、空いたグラスを見つけては注文をとったりした。できるだけ、いつもと変わらぬように心を砕きながら。
親父は筋くれ立った指で風呂敷の結び目をほどくと、杉箱のフタを開けた。さらに包んでおいた和紙をはがして、利休鼠の器を両手で挟むようにして持ち上げた。
何も言わず、表、裏と、舐めるように品定めをはじめた。ぼくは妙な緊張でお腹が固くなり、ゴクリと唾を飲みこんだ。
「この丼は、悪くない。ありがとな」
ふいに鼻の奥がツンと熱くなったぼくは、「いえ」と首を振りながら思った。
まだしばらく、この人には勝てないなー。