森沢明夫作品は名言の宝庫
森沢明夫さんは、作品を読んだ人に幸せを感じてほしいと思ってくれているのでしょう。森沢明夫さんの作品は、どれもたくさんの名言がちりばめられていて、その言葉を噛み締めながら読んでいます。
では、
「ミーコの宝箱」の名言を、
どうぞーー。
わたし自身が幸せになりたければ、「捨てられた」という事実ではなくて、「産んでくれた」という事実にだけ気持ちをフォーカスさせながら生きていくことーー、それが必要だったのだ。
「毎日、小さな宝物を見つけるために、目はあるの」
「毎日、小さな宝物、か……」
「これ、おじいちゃんが教えてくれた、幸せになる秘訣です」
「いいな、それ」
どんな辛くても、身の回りの小さな宝物を見つけて、それを見詰めていれば、人はそこそこ幸せに生きていくことができる。おじいちゃんはそう教えてくれたのだ。
「おばあちゃん、わたしにこう言ったんです。ミーコの手は、ありがとうの手にしなさい。あんたのその手は、他人様からお礼を言われるためにあるんだよーーって」
あの頃、わたしがどうしても自分を愛せなかった理由が、いま少し分かった気がした。
本当は、わたし自身を愛せなかったのではなくて、単に、わたしが置かれていた「環境」を愛していなかったのだ。いや、環境を愛すどころか、その環境にないものばかりを求めていたのだろう。その最たるものが、お母さんという存在であり、お母さんの手作り弁当であり、母性という名の愛と安堵だったのではないか。
わたしは、わたしの置かれた環境を愛せずとも、せめて受け入れるべきだったのかも知れない。そして、その環境のなかに存在していた父からの愛と、愛子さんからの優しい気遣いに目を向けることができていたならーー。わたしはどんな日々を過ごし、いま、どんなわたしになれていただろう?
同じ班にいた片想いの男の子までが、わたしの弁当を見て失笑していた。それを見たわたしは、こわばる顔を無理矢理にほころばせて、「ほんと、茶弁当だ?」と自分の弁当を笑って見せたのだが、胸を焼かれるほどの恥ずかしさと、悲しさと、父に対する理不尽な怒りで、その日の弁当は半分も食べられなかった。放課後、部活をサボったわたしは、ひとり近くの川の土手まで歩いていき、草むらの隅っこに弁当箱の残りを捨てた。草の上に落ちたときのドサッという音は、いまでも耳の奥にこびりついて離れない。
夜になり、仕事から帰ってきた父は、台所で空っぽの弁当箱を見つけると、まるで子どもみたいに嬉しそうな顔をした。
「奈々、今日の弁当、美味しかったか?」
「人って、生きていれば嫌なことが普通にたくさんあるでしょ? でも、目を鍛えると、嫌なことと同じか、それよりもちょっぴりだけ多く、幸せを見つけることができるの」
「同じガラクタを見ても、ゴミに見える人と宝物に見える人がいるとしたら、せっかくだから、宝物に見えなる目を持った方がいいでしょ。その方が幸せになれるってーー」
「人間の心ってね、傷つけたくても、傷つかないようにできてるんだよ」
「え……」
「絶対にね」
「……」
「心ってね、傷つかないで、磨かれるだけなの。やすりと一緒だよ。やすりで磨くと、削られて痛むけど、でも、ごしごしやっているうちに、最後はぴかぴかに光るでしょ」
「……」
「チーコもね、ずっと心にやすりをかけられていたから、すごく痛かったと思うのーーでもね、そのおかげでいま、ぴかぴかに磨かれた心があるよ。ここにね」
そう言ってママは、わたしの膨らみかけた胸をチョンと突いたのだった。
鼻の奥がじんと熱くなったわたしは、涙をこらえてママを見た。